夕方、トイレに席を立ちフロアから廊下に出ると廊下で立ち話をし ている瀬能さんを見かけた。 帰って来たばかりなのか、まだコートを着たままで鞄も持っていた。 この会社の制服を着た知らない女の人と話している。 何を話しているのかは判らなかったけど、 ちょっと親しげな様子で女の人は時折瀬能さんの腕を軽く叩く様な 仕種も見せていた。 (誰…かな?) 瀬能さんが私に気が付いてか、こちらを見てにこりと笑ったので、 慌てて頭を下げた。 「じゃ、持田また」 「来週の金曜日ね」 「あぁ」 ”持田”と呼ばれた女の人はそう言うと瀬能さんに手を振って歩い て行ってしまった。 「えっと…おかえりなさい、です」 「うん、ただいま」 にこっと彼は笑った。 笑ったまま、何を言うでもない。 そして立ち去るわけでもなかった。 私は瀬能さんをちらりと見上げる。 彼はまた笑った。 聞かないと言わないんだなと思えた。 「あのー…、今の方はここの社員さんですか」 「うん、俺の同期」 「そうなんですね、なんか随分親しそうでしたね」 「同期だからね、仲は良いかな」 「来週の金曜日何かあるんですか?」 「同期の皆で飲み会だよ。5〜6人集まるらしいね」 「同期って何人ぐらいいるんですか?」 「同期入社は20人ぐらい、仲が良いのはそのうちの10人だよ」 食事もよく行くんだよと彼は続けた。 瀬能さんはひとりでは食事しない人だから、食事相手はいるんだろ うなとは思っているけど。 彼はにこっと笑った。 「なので、来週の金曜日は夜、俺は居ないからね」 「あ、はい…」 寂しいな、と思ったけど、瀬能さんには瀬能さんの付き合いがある のだろうから仕方がないと思った。 そろそろまた、編み物を始めようかな…。 瀬能さん付き合い広そうだし、夜一人とか多くなりそう。 「じゃ、私トイレに行くので失礼します」 顔を上げて彼を見ると、何か文句有り気な表情を浮かべている。 「え?あ、何ですか?」 「何でもない」 ふっと溜息をついて行ってしまった。 ―――――何?? ****** 帰りのロッカールームで着替えながら、夕方の出来事を生田さんに 話してみると彼女は笑った。 「それねー、多分、高槻ちゃんに何か言って貰いたかったんじゃな いかな」 「何かって何ですか?」 「寂しい、とか、行かないでーとかかなぁ」 「そりゃあ、寂しいですけど、でもお友達とのお付き合いは大事だ と思うんです」 「高槻ちゃん理解あるなぁ、でも女の子も居るんでしょ?その飲み 会」 「え?あ、多分、女の人と話していたのでその人も参加すると思い ます」 「女の子が一緒の飲み会とか私は嫌だなぁ」 「そういうものですか?」 「嫌じゃないの?」 「んー…」 「私は彼氏が女の子一緒の飲み会に参加するって言ったら反対する。 嫌だもの、お酒の席だし、何かあったらーとか考えるの」 「何か?」 「信じてないわけじゃないけどさ」 ロッカーを閉めて鍵を掛ける。 「とられたりしたら嫌だもの、女ってどんなあざとい手を使うか判 らないし」 生田さんは急に真顔になって言う。 彼女が真面目な顔になるから、急に心の中が不安定になった。 「浮気とかもすっごい嫌だし…って、高槻ちゃん?」 浮気?とられる? 心が不安定になって、急に色んな事が不安になった。 また、私、心に蓋を閉めかけてる。 廊下で親しそうに話している持田さんと瀬能さんを、嫌だって思っ た自分に気付かない振りをした。 持田さんが瀬能さんに触るのを、嫌だって思ったのを、隠した。 誰も、瀬能さんに触れないで、瀬能さんに触れていいのは私だけ。 違うかもしれないなんて考えたくない。 苦しくて涙が溢れた。 「ごめんね、嫌な事言っちゃったよね?」 私は首を振った。 「私が、考えたくない事から逃げて、考えない様にしてただけ、 です」 理解あるわけじゃない。 そういう振りをしてて、そういう振りをしている事にさえ気付かな い様にしてただけ。 嫌だ嫌だって、本当は駄々っ子みたいになっている自分が奥にいる のに隠そうとしてるだけ。 気が付いていなければ苦しくない。だから気付いてない振りをする。 そんな勘違いをしているだけだった。 ****** 「え?何?なんで泣いてるの?」 エントランスで待っていた瀬能さんが驚いた様に言う。 付き添って一緒に歩いてきた生田さんが”ごめんなさい”と言った。 「泣かせちゃった。なので、後はお願いしますね、瀬能さん」 生田さんはそう言うと先に帰って行った。 「…んー、どうした?沙英」 私は顔を上げて瀬能さんを見る。 「瀬能さんには、いつまでも私だけの瀬能さんで居て欲しいんです」 「うん、そのつもりだけど」 「私以外の人に触れられるの、嫌なんです」 「…うん」 「私以外の人を抱いてる瀬能さんなんて考えたくない」 「え?あー…沙英?また何か極論になってるよね?」 「昨日の夜みたいに、壊れちゃうぐらいに他の人を抱く瀬能さんな んて…」 「いやいや、何でそういう話なのさ」 私の頭をぽんぽんと軽く叩きながら彼が言う。 「だって、そうなったら嫌なんです」 「ならないから」 「ううん、”女の人はあざとくてどんな手を使うか判らない”んで す!」 「まぁ、確かにあざとい所もあるし、様々な手を使って誘惑もして くるけど」 「いやー」 泣いてると、くしゃっと私の髪を撫ぜた。 「大丈夫、そんな所は心配しなくて良いから」 彼はハンカチを出して私の涙を拭った。 「心配の種、あるの…嫌です」 「心配の種って?」 「女の人がいる飲み会は嫌です」 「あぁ、その事ね」 「女の人は酔った振りして瀬能さんにしなだれかかったり、 酔って歩けないとか言ってすぐ近くのホテルに瀬能さんを連れ込ん だりするんです」 「いや、酔って歩けないとか言い出したらタクシーに放り込むけど…、 なんでそこで俺が一緒にホテルに入っちゃう設定なのか理解できな い」 「相手の女の人が魅力的だったら、まんざらじゃないと思うんです」 「はぁ、俺はそんなに貞操概念の低い男ですか」 「だって…」 「ま、ともかく帰りますよ」 私が泣いているから、という理由で会社から家までタクシーを使っ て帰る事になった…。