****** 私が所属しているのは総務部で、零司さんが所属しているのは設計部だ。 総務はビルの2階にあり、設計部は3階にあるので、会社にいても、もともと そんなには接触がない。 喫煙ルームが2階にあっても、私が煙草を吸わないから、会わない時は全く顔 を合わせる事もなかった。 それで良い。 接触を持たない方が良いのだと自分に言い聞かせた。 あの時の事は、もう全部、忘れてしまう方が自分にとっては良い筈なのだから、 多少の辛さがあったとしても、それは本当に一時の事だ。 すぐには無理でも、時間が解決してくれる筈だと信じたい。 綺麗な横顔も、肌のぬくもりも、知らなかった頃に戻れる筈だ。 たとえば戻れなくても、また触れたいと思わないでいられる自分になる努力は できると思う。 願わなければいいだけだ。 意識しなければ。 それで全部元通り。 辛さは副作用のようなものだと無理にでも自分に理解させる。 思い出しちゃ、だめなんだ。 彼の甘く誘うような声を。 ……だけど。 振り切ろうとすればするほどヌカルミにはまって動けなくなって行っている気 がした。 “考えないようにしよう”と決めても考えてしまい、会えない事を苦しく思う。 一瞬だって彼の姿を見てしまえば、それはそれで辛くなるのだろうに、私はそ の一瞬を心のどこかで期待してしまっている。 期待してしまっているから、会いたい気持ちが強くなり、叶わない事を苦しく 思う。 この想いを切り捨てられないのは、きっと私の弱さと甘えなんだろう。 あの日をなかった事にしようと思っているのに、どこかであの日の出来事にす がっている自分もいる。 心の中が、以前と同じにならない。 頭の中が零司さんでいっぱいになってしまっていて。 彼の方は“一度寝た程度”だと思っているだろうに。 私だって、執着するつもりなんてなかった。 むしろしたくない。 忘れる事の方が楽なのだから。 メアドも携帯の番号も聞かなかったし、彼も聞いてこなかった。つまりはそう いう事なのだ。 おおよそ女性に不自由していなさそうな人が、私に長く興味を持つ筈がない。 小さくため息を漏らした。 そんなふうに過ごす日々が一週間過ぎていった。 ****** 会社の近くには川が流れていて、駅までの道のりでちょっと遠回りをすると小 さな橋がかかっていた。 私はその橋の上から川の流れを見たりするのが好きだった。 他の社員さんも、駅に行くのにあまりこの道は使わないから人知れずぼんやり する事も出来た。 会社の自販機でコンビニで買うより40円安くなっている桃のジュースを飲み ながら、私はその日もぼんやりと川の流れを見たり、立ち並ぶビルを眺めてい た。 どうしよう。 泣きたくなってくる。 会いたくて堪らなくて。 それなのに、何も行動できない自分が、情けない。 少しでも、姿を見たいと思うのなら、仕事があるふりをして設計部に行く事だ って可能ではあるのに、私はそれさえもしなかった。 “何か”を思われるのが怖いから。 “何か”を期待していると思われるのが嫌だから。 何かを望んでいるわけではない。 望んでいるわけではないけれど、彼の姿を少しでも見たいと願う気持ちは本当 だった。 どんなにその心を否定しようとしても、気が付けば思ってしまっている。 ……あの日よりも前に私が彼に想い焦がれていたのなら、また別の道もあった かもしれない。 でも今だって、彼が好きかといえば判らないのだ。 会社の先輩としての好きという気持ちはもちろんあるけれども、その感情が恋 につながる、または同じものかといえば、よく判らない。 私は零司さんの見た目以外は知らないも同然だったから。 彼がどんな人かなんて知らなかった。 好きかどうか判らない事でも、私は動けずにいた。 好きであるならそれなりのアプローチの仕方だってきっとあるだろうに。 (なんか、全然だめだなぁ、私って) ぐじぐじしてて、女々しくて。 ぶつかる勇気も微塵もなくて。 残り少なくなった桃のジュースを一気に飲み干すと、また小さくため息をつい た。 結局私はどうしたいんだろう。 どんな風に考えてみても答えが出てこない。 答えが見つけられないのか見つける気がないのかそんな事さえも判らない。 苦しくならないように。 それは心のどこかで望む事。 痛いのは嫌だ。 苦しいのは嫌だ。 それがはっきり判っているのに絶ち切れない。 「あれ?更科さん?」 声がしたのでそちらの方に目をやると、設計部の西木 さんが居た。 零司さんより少し若いくらいの男性社員さんだ。 「あ、えっと、お疲れさまです」 「うん、お疲れさま、まだ帰ってなかったんだ?」 「はい西木さんは今帰りですか?」 「ああ」 「お疲れさまです、残業大変ですね」 「まあね、で、どうしたの?こんなところで」 「えっと、ちょっと気晴らしに」 「こんなところで気晴らしねぇ」 私はちょっと苦笑いをした。 「すみません、変ですよね」 「あ、いや、変とかじゃないと思うけど、まあ、驚きはするけどさ」 彼はちょっとだけ笑った。 「気晴らしをしたいなら、カラオケ行くとかなんか色々ありそうな気がするか らさ」 「カラオケですか」 「たとえばの話だよ」 零司さんはカラオケに行って歌ったりするのかなとぼんやりと思った。 あの人が普段どんな風に過ごしているとか、何を好むのかとか、私は本当に何 も知らない。 たとえばカラオケに行った時には何を歌うのかとか、そんな些細な事でさえ知 らない。 唾液の味や身体の温度は知っていると言うのに。 「これから予定がないんだったら、飯でも食べていかないか?」 ふいにそんな声がして、私は彼を見た。 西木さんとご飯? 「あ、ええと、もう夕飯の用意を家でしてもらっちゃっているので、すみませ ん」 「そっか、それは残念だな」 「すみません、せっかく誘って頂いたのに」 「うん、いいよ」 彼はにっこりと笑った。 「じゃ、早く帰りなね」 「はい」 橋を渡っていく西木さんを見送って、私はまたぼんやりとした。 私が思うより、ここを通る人は多いのかもしれないな。 人に知られにくい場所だと思っていたからこそだったので、これからは別のと ころを探さなくてはいけないかなと思えた。 (私も帰ろうかな) 薄暗くなった空を見上げるといっそう何とも言えない気持ちになった。 せっかく、私を誘ってくれたのに、断って悪かったかなとか色々考えてしま った。 西木さんが悪い人とは思っていないし、むしろ零司さんより人当たりの良い人 だと思っている。 いつも明るくて。 でも。 誰かと、特に男の人と食事に行くという気持ちにはなれなかった。 それだけ心の中が零司さんに侵食されてしまっているという事なのだろうか。 満たされたいと思うけど、それはやっぱり誰でもいいわけじゃないのかな。 あんなに簡単に、零司さんと“そう”なってしまった私でも、そんな風に思っ てしまうものなのかな。 拘束されているものは何もない。 だけど、あの時よりも強く拘束されてしまっているような気がした。 私の全部が何かに絡めとられ、縛られているそんな感じだった。 そっと自分の手首を撫でる。 あの時のネクタイの感触を思い出すかのように。 縛られたい。 いっその事奴隷のように私の意思と関係なく扱って貰えた方がどんなに楽だろう。 ……でも、そんな風に私が思った所で、零司さんはもうこちらには興味を持っ ていないかもしれなかった。 橋を渡りきった所にある自販機横のゴミ箱に缶を捨て、すっかり重くなってし まった足取りで私は駅へと向った。