****** 大きな窓からは夜空が見える。 星空がいつもより少しだけ近くに見えた。 その分、街の明かりは遠くに見えていたけど。 「別に珍しい景色でもないだろ?」 ベランダの窓近くの床に座り込んでいる私に合わせるようにして座っている零 司さんがそんな風に言った。 「そんな事ないですよ、高い所から見る景色は好きなので」 「ふーん、変わってるなおまえは」 「そうですか?」 「ああ、橋から川を眺めたりとか、すっげえ変わってる」 「え?」 「あんなドブ川みたいな川を見て何が楽しいのかねぇ」 「え、ええ?」 何の事を言われているのか判って、火がついたみたいに顔が熱くなった。 「な、なっ、なんで、知ってるんですか」 「何でって、おまえの事だし」 立てた膝に頭をちょこんと乗せる格好をしながら彼は言う。 どんな仕種でも、絵になる人だなぁと思った。 ――――って思っている場合じゃない!! 「……いつから、その、ご存知なんでしょうか」 「結構前から知ってるよ。最初は何やってるんだろうなぁって思ったけど」 「誰も知らないと思ってました」 「はぁ?あんなに会社に近い場所なのにか?」 「だって、通り道じゃないですし」 「割と知られてるぜ」 「……そ、そうですか」 「今日も、あれか?橋でぼーっとしてたってクチか」 「う、えっと、そう、です」 「何を考えてたんだか」 くすっと彼は笑った。 「……ぅ」 ずっと、零司さんの事を考えていた。 会いたいのに、会えなくて。 会いたいと思っているくせに会いに行かない自分が情けなくて。 その行動する勇気の無さに。 「言っておくけど、おまえがあそこでぼーっとしてる事を知ってるのは俺だけ じゃないからな」 「え?そ、そうなんですか」 「ああ」 「う、わ……今日も西木さんと会ったし、あそこをぼーっとする場所にするの は止めます」 「西木?」 零司さんがぴくりとして顔を上げこちらを見た。 「あ、はい」 「ふぅん、で?」 「え?」 「あいつ、何か言ってきたか」 「何かって?」 「判らないから“何か”って聞いている」 「え、えっと、ご飯食べて帰らないかとは言われましたけど……」 「そう」 「それぐらいですね」 「そうか」 「西木さんに駅で会わなかったですか?」 「ああ、会わなかったな。すれ違ってても多分気付かないだろうし」 「え?そうですか」 「ああ。興味ないしな」 「って、部下じゃないですか!」 「部下か?俺の直属じゃないぜ?」 「でも、同じ部だし」 「とにかく興味ないんだから仕方ないだろ」 「……そういうものですか?」 「そうだ」 「……」 「何だよ」 「あ、いいえ……」 興味がないと、視界にも入れないのかな。とか思ってしまった。 入ってても認識しない、とか? タイミング的には、すれ違っていたと思うから何となくいたたまれない気持ち になってしまった。 私は、興味を持たれている……の、かな。 もし興味を持たれているとしたら、それは今だけの話? 興味の対象から外れてしまえば存在すら認識して貰えなくなってしまうのかな。 だとしたら、それほど辛い事はない。 きゅっと唇を噛み締めた。 「何?俺が西木に興味が無い事がそんなに不満なのか?」 彼は笑いながらそう言った。 「ま、これからは気にして見るようにするよ」 「あ……は、はい」 「おまえに興味を持つ不届きものだからな」 「え??」 急に腕を掴まれて、彼の腕の中へと引き寄せられた。 「れ、零司……さん?」 「なんで西木の誘いは断った?」 「え?え、と……家でご飯の用意、して貰っていたから……」 「して貰って無かったら、ついて行ってた、そういう事か?」 「……そんな事……ないです」 腕を伸ばし、そっと零司さんの身体を抱き締めた。 香水の香りのない、彼本来の匂いがした。 彼の体温、肌の感触。 どれも心地良いと思えるものだった。 だからこそ、もっともっと零司さんの事を知りたいと思った。 外側だけでなく、内面も知りたいと思った。 「もっと明確な答えを寄越せよ、花澄」 顎を掴まれて、彼の方を向かされる。 綺麗な瞳と目が合った。 その色も輝きも美しく、私を魅了する。 遠くで見ていた時よりも、彼を美しいと思えた。 ずっと見ていたいと、そう思ってしまう程に。 ……ずっと見ていたいから、ずっと見ていて欲しい……。 「零司さんじゃないと、嫌だったんです」 傍に居るのが、他の人じゃ駄目だから。 「わ、たしは……零司さんじゃないと……」 彼が笑った。 「たかだか、食事だろう?」 だけど、そう言いながらも零司さんは零れるような笑顔を私に向けてくれる。 それだけで、私の胸は熱くなった。 胸が熱くなるその原因が、もう何でも良いと思えるぐらい。 “その想い”に名称なんて要らないと、思ってしまえるぐらいに、欲する心も 強くなる。 望む想いが強すぎて、泣きたくなってしまう。 「また、そういう顔をする」 零司さんは笑って、私に顔を近づける。 「おまえは本当、可愛いな」 彼の唇が私の唇に触れそうな距離にあるのに触れては来ない。 傍に欲しい体温があるのに焦らされる。 しても良いのかどうか判断に迷うけれど、試されているのかも知れないとも思 えた。 試す?? 彼が一体何を試すっていうの。 彼は私に我慢をさせたいのか、或いはこちらからするのを待っているのか、そ の表情からは何も読み取れない。 ただ、私が勘の悪い女だっていうだけなのかも知れなかったけれども。 零司さんは少しだけ目を細めて笑った。 「したくないの?」 「したい、です」 「だったら何故しない」 「して良いのかどうか、判らないから……です」 「じゃあ、俺が良いって言わなければしないわけか?我慢し続けるって事か? それがおまえに出来るの」 私は首を振って、後数センチ、という距離を詰めた。 ついさっき交じり合ったばかりだというのに、彼の唇に触れただけで気持ちも 身体も高まってしまう。 零司さんの唇は堪らなく気持ちが良かった。 キスだけで、こんなに高揚してしまうのは彼以外とではなかった事だ。 “今までは、こんなんじゃなかったのに”という事が多すぎる。 セックスも、そして、そのきっかけだってそうだ。 何故、私はこんなにも彼に欲情してしまうんだろう?? 確かに彼はその辺の男性と比べて遥かに美しく麗しい人だったけれど、だから と言ってそれが何もかもをおかしくしてしまう要因に成り得るのだろうか? いわゆる美形は多くは無いけど少なくも無い。 それとも私は、ちょっと綺麗な男性にならみんなに“こう”なってしまうのだ ろうか?? 西木さんが見目麗しい人だったら、ほいほいついて行って、そしてセックスし たりしてしまったのだろうか? 私はそういう人間なんだろうか? 考えれば考えるほど答えは見つからない。 こんな筈ではなかったのにと否定し続ける自分と、彼が傍にいる事に酔いしれ ている自分が混在した。 否定はしているけれど、彼に抱かれた事自体は後悔はしていない。 つまりは、気持ちの整理がなにひとつ出来ていないというだけの事で、受け入 れる事には喜びを感じているのだから、何をいつまでもぐずぐずと迷う必要が あるんだろうか? 触れ合わせた唇の感触を確かめるように何度も擦り合わせた。 強い実感が欲しい。 今、ここにいるのが彼なのだという実感。 現実的ではないこの状況を、実際に起きている出来事なのだという確かなもの が欲しい。 夢見る時間がたとえ一瞬のものであっても。 「おまえのキスはやらしいな」 少しだけ唇を離してから彼はそう言った。 「やらしくさせているのは零司さんです」 「へえ?ひとの所為かよ」 くくっと彼は笑った。 「何人の男をたぶらかしてきたんだか」 「たぶらかしたりしてません」 「そうかな」 「そうです」 「こんな、やらしい身体してるくせに?」 そう言って彼は少し乱暴に私の胸を鷲づかみにした。 乱暴ではあるけれど、強い痛みはない。 そのぎりぎりのラインを彼は熟知しているのだろうか。 そのぎりぎりのラインが、堪らなく興奮するものであるという事も、知ってて やっているのだろうか? 「そ……そういう、零司さんだって」 「俺が、何?」 「私の身体がやらしいとか言うなら、零司さんは存在そのものがやらしいです」 「何だよ、それ」 彼は可笑しそうに笑った。 「私がたぶらかしているって言うんだったら、零司さんはもっとだと思います」 「ふうん?」 「その目だって、唇だって、めちゃくちゃやらしいじゃないですか」 「そう」 彼は笑った。 「だったら、もっと欲情しろよ。俺に溺れろ」 そんなの、もうとっくだ。 言われなくても、命令されなくても、私は零司さんの匂いを嗅いだだけでも、 激しく欲情するのだから。 狂ったように乱される。 押さえがきかないという感情を初めて知った。 もっと私に触れて。 もっと私を乱して。 そして貴方に触れさせて。 「零司、さん」 触れるのが唇だけじゃ足りなくなる。 彼の舌を舐めて、その舌に自分のものを絡める。 濡れた舌の感触は興奮を煽り、感情を高めた。 口腔内の液体にさえ興奮をする。 交じり合う液体と吐息。 彼の息遣いにだって気が触れたみたいに心が乱れる。 正常か異常かと言われたら、今の私は異常ではないとは言えない。 発情した猫のように零司さんに身体を摺り寄せた。