「綾城さん、頼まれていた見積書、作成終わりましたのでチェックをお願いし ます」 長い髪をピンク色のシュシュで束ねた営業事務の日比野がそう言って俺のデ スクにやってきた。 「ああ、ありがとう」 顔を上げて礼を言うと、彼女はにこりと微笑んだ。 柔らかな印象の彼女。 桜貝のような爪だなと、日比野の指先を見て思った。 「……今日はこれから外回りですか?」 ホワイトボードに書かれた予定をちらりと見てから彼女は言う。 「そうだけど、何か?」 「あ、いえっ、気をつけて行ってきて下さいね」 「……ああ」 なんとなく。 日比野は俺に好意を抱いているのではないかと思えた。 誰に対してもそう態度が変わることがあるわけでもないから単なる勘に過ぎ なかったのだけど、俺はもう社内恋愛はこりごりだった。 以前いた会社で付き合い始めた彼女。 純粋で誠実そうに見えたのに、俺と付き合いながらも上司と不倫を続けてい た。 不倫をやめるつもりで俺と付き合い始めたが、結局上司を切れなかったと泣 かれたが、二年付き合ってそれかよと。 しかも上司との付き合いのほうが長いのかと色々と呆れた。 彼女の上司は俺の上司でもあり、どうにも我慢出来ずに会社を辞める羽目に なった。 女に人生を狂わされるのはもうごめんだ。 だから。 余計に社内恋愛はしないと決めた。 この会社に入社して三年、また転職という事態は願い下げだ。 「そろそろ出ようか」 俺は資料をまとめ、隣の席に座っている同じ営業の井ノ瀬に声をかけた。 「もういいの?」 猫の目のようなアーモンドアイをちらりとこちらに向けて彼女が言う。 「もしかして待たせていたか?」 「少しだけね」 井ノ瀬はすっと立ち上がる。 「帰社時間はどうする?」 ホワイトボード用のペンのキャップを外しながら彼女は俺を振り返った。 「戻ってくるのは難しくないか」 「じゃあ、直帰で」 きゅきゅっと音を立てながら綺麗な文字で直帰と書き込む彼女を、日比野が じっと見ているような気がした。 クライアントに出向き、企画の説明を行う。 今日は二社とオファーがあり、両方の会社の訪問を終えた頃には空がすっか り暗くなっていた。 「……やばい。煙草吸いたい」 「じゃあ、寄っていく?」 井ノ瀬はくいっと顎で方向を示した。 町の中にある喫煙所。 「ああ、気付かなかった」 俺が入ると、彼女も一緒に入ってきた。 「あれ、井ノ瀬さんって」 「何?」 俺が煙草の火をつけるよりも先に彼女は煙草を口に咥え火をつけた。 「煙草を吸う人だったか?」 「……会社ではあまり。でも、最近本数が増えてきたから会社でも吸うことに なりそうだわ」 「ふーん、ストレスでヘビースモーカーになりかけているわけか」 「ストレスとか、別に」 ふぅっと煙草の煙を吐き出し、彼女は言った。 猫の目の彼女は、普段からあまり表情を変えない。 絶対に笑わないだとかそういう類ではないものの、営業スマイル以外では愛 想笑いはしなかった。 井ノ瀬の細い指には指輪がなく、営業だから外しているのか、恋人が存在し ないのかは判らなかった。 モデルのようにすらりと背が高く、お世辞ではなく綺麗な容貌をしている彼 女に男がいない筈はないだろうと思えたが、プライベートなことをわざわざ聞 くほど仲良くもない。 今年に入ってからは仕事の上ではペアを組むことが多かったが。 煙草を挟む彼女の指を見て俺は言う。 「爪」 「え?」 「長くしてないんだな」 「そうだけど、それがなに?」 「いや、でも綺麗にネイルをしているなって思っただけだ」 彼女はふうっと煙草の煙を吐き出した。 「長くしても、いいんだけど、間違えて引っ掻いてしまったら悪いでしょ?」 彼女は唇の端を少しだけ上げて微笑んだ。 「むやみに人を傷つけたくないの、“しはじめたら”夢中になりそうだからね」 ふふっと色香を漂わせた視線をこちらに向けてきた。 何かを含んだような彼女の物言いに思わず返す言葉がなくなる。 「ばかね、なんて顔するの? ナニを想像したんだか」 井ノ瀬は意地悪く微笑むと煙草の火を灰皿で消した。 「煙草の匂い、お揃いね」 彼女はさらりとした長い髪を少しだけ揺らして俺に微笑んだ。 そして何事もなかったように喫煙所から出ていく。 無意識に彼女の後ろ姿を見送ってしまって、はっとする。 頭を冷やせ。 煙草の煙を大きく肺に吸い込ませながら俺は心のなかで大きくため息をつい た。
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