ワスレテシマイタイキオク―――――。 ダカラ、ムネノオクニトジコメテイタハズダッタノニ。 ****** 今年も、もうすぐ終わろうとしていた。 今年最後の出勤日。 業務終了後に慰労会が行われる通達が来ていた。 ビュッフェ形式で会社近くのレストランで行われる。 私たち派遣社員も呼ばれていた。 「呑み放題、食べ放題か。美味しいと良いわね」 レストランへ向う道で、生田さんがそう言った。 ちら、と彼女が私を見る。 「その後、瀬能さんとはどう?」 どう?と聞かれてどきっとしてしまう。 一緒に住んでいる事は誰にも言っていない。 「…え、ど、どうって…」 「他意は無いんだけど、気になってるから聞いてみた」 悪戯っぽく彼女は笑う。 私は言おうかどうするか悩んでから口を開いた。 「変わりはないです、でも、正直自分の気持ちは判らないです」 「気持ち?好きかどうかって事?」 「す、好きっていうか…それも含めて、なんですけど」 「そうかぁ」 生田さんは微笑んだ。 「女の勘だけど、瀬能さんは高槻ちゃんの事、好きだと思ってるんじゃ ないかな」 「そんな事…ないと思いますけど…」 「彼女も居ないって話だしね。それに色々考えるとねー」 「色々、って何ですか?」 「うん、私は瀬能さんとよく話す機会があったんだけど、今思うとやた ら高槻ちゃんの事を、聞きたがっていた様に思えるの」 「私の事…ですか?」 「あからさまじゃないんだけどね、さりげなく”高槻さんはどうしてる の?”って聞かれる事が、多かった様な気がするの。だから私も自然と 瀬能さんと話す時は、まず高槻ちゃんの事を、一番に話す様になってい ってたわね。ロクシタンのハンドクリームつけたときに、ほわっとする 話とか、鞄に蝶モチーフのチャームがついてて本人がそれをとても気に 入っているんです、とか」 「え、蝶…ですか」 「そんな話もしたと思う」 …だから…? アナスイの蝶の鏡を買って来てくれたのは。 私が”良く知らない人”と思っていた間でも、瀬能さんは私を気にかけ ていたの? きゅっと心の中が痛んだ。 切ない。 この感情が切ないという感情なのだろうか。 ふっと私はそう思った。 心の中の感情が急速に動き始めている様な気がした。 止めたい、止めたいと思っているのに。 何かに引き寄せられている。 …そんな感じがしていた。 瀬能さん。 ほんの少し、彼の事を考えるだけでも心が震える様になってしまってい る。 そして、その心の震えが決して不快なものでは無かったから、一層彼を 考える様になってしまっている自分がいた。 目を閉じれば、ただもうそれだけで、瞼の裏側に彼が投影される。 そんな様な感じ。 瀬能さんの綺麗な笑顔がいつでもそこにはあった。 ****** レストランで乾杯の音頭がとられた後でも、一部の人はまだ来ていなか った。 そのうちの一人は瀬能さんだった。 もともと、年末の挨拶で回らなければいけない所があると言っていたか ら、それが長引いてしまっているのだろう。 (居ないのに…) 思わず彼の姿を探してしまう自分がいる。 残り少なくなってきた大皿のグラタンが目に留まる。 瀬能さんはグラタンとかクリームシチュー等のホワイトクリーム系の料 理を好んでいた。 ここのグラタンは美味しかったから、彼にも食べて欲しいと思えた。 もっとも、グラタンぐらい、食べたければ食べに行くんだろうけど…。 なんだかちょっとだけ気持ちが沈んだ。 彼が居ないというだけで。 家に帰れば勿論会えるんだけど、同じ空間に居ない事が寂しいと感じて しまった。 「あ、瀬能さん、お疲れ様です」 生田さんの声に、はっと顔を上げると濃いグレーのスーツに身を包んだ 彼がこちらに向ってやって来ていた。 「ん、お疲れ様。来年も宜しくね」 「はい、こちらこそ宜しくお願いします。遅かったんですね」 「あぁ、外での仕事が長引いてしまってね。すっかり出遅れた感がある な。部課長は出来上がっていたし」 ふふっと彼は笑った。 こちらを見てから、また笑う。 「沙英ちゃんもお疲れ様」 「…お疲れ様、です」 いつも彼と話をしている筈なのに、それだけ言うと胸がいっぱいになっ てしまって言葉が出なかった。 少しの沈黙の後に口を開いたのは生田さんだった。 「あー…、あの、瀬能さん何か食べますよね?取ってきましょうか」 近くのテーブルに自分の持っていたお皿を置いて彼女が言った。 「あぁ、ありがとう。でも、立食って苦手だから料理はいいかな」 「じゃあ、ビールでも貰ってきますね」 「ありがとう、お願いできるかな」 彼が笑った後、生田さんはカウンターにビールを取りに向った。 「沙英ちゃん、元気ないか?」 「そんな事はないです…それより、瀬能さんご飯…食べないんですか?」 「食事はゆっくり摂りたい人だから、立食って駄目なんだよね」 瀬能さんはそう言って微笑んだ。 「沙英ちゃんはいっぱい食べた感じ?」 それが何を指しているのかすぐに判って、私は首を振った。 「まだ、食べられるので、あとでちゃんとご飯を食べましょう?」 私が食べないと言ったら多分、彼は夕飯を食べないだろうと思われたか ら、私はそんな風に答えた。 「ん、ありがとう」 彼のその表情が満足そうに見えて、私は安堵の溜息をついた。 「だけど、本当に少し元気ないんじゃないか?」 瀬能さんは私を覗き込む様に見てきた。 ちらっと彼を見てから小さな声で答える。 「…少し、だけ…寂しかったんです」 「寂しい?」 「瀬能さんが、居なかったから」 「…そうか」 彼はふふっと笑った。 言ってから顔が熱くなってくる。 「すみません、変な事言って」 「変な事ねぇ」 可笑しそうに微笑む瀬能さんの表情はとても綺麗だった。 いつまでも見ていたくなる。 その気持ちは前と変わらない。 だけど、今は見詰める程に胸が疼く様に痛い。 「瀬能さん、お待たせしました」 生田さんがビールを持って戻ってきた。 「あぁ、ありがとう。生田さんはいつも気が利くね」 彼の言葉に、生田さんは嬉しそうな顔をするでもなく、 むしろ少し困った様な顔をして私をちらりと見た。 「いえ、あの…全然、そんな事ないですよ」 彼女が苦笑いをするものだから、ちょっと微妙な空気になってしまう。 「んー」 彼女のそんな様子を受けて、瀬能さんは少し首を傾けて私を見た。 「生田さんに何か話してるの?」 ちょっと笑いながら彼が言う。 「え?な、何かって、何ですか?」 「いや、判らないから聞いてるんだけど」 「え、と、判らないですけど」 「ふぅん」 瀬能さんは斜めから私を見る。 ちょっと流し目みたいな感じになったので、どきっとしてしまった。 「部の中でも、生田さんは評判良いよ、細かい事にも気が付くしってね」 生田さんに向き直って彼が言うと、彼女は益々困った様な表情をする。 「い、いえ…そんな」 「”俺も”そう思うし」 彼の言葉に生田さんは今まで見た事無い様な居心地の悪そうな表情をし た。 ビールを一口飲んでから、瀬能さんは笑って言う。 「なーんか、変な空気だよね。生田さん、凄く誰かに気を遣ってる感じ で」 ”誰か”と言いながら私を見る。 「え、わ…私は何も」 よく判らないまま慌てて首を振った。 「その、高槻ちゃんから何も聞いてませんから、本当に!」 なんて生田さんが言うものだから、瀬能さんはくくっと笑った。 「女同士仲が良い事で」 私の頭にぽんと手を置いてから、彼は他の人の所へ行ってしまった。 「高槻ちゃんごめんね」 なんの謝罪か判らない謝罪を生田さんがする。 「瀬能さんの事だから、私がでしゃばらなかったら良かったわよね」 「え?いえ、あの…何が、ですか?」 「その、ビール持ってきたりとか高槻ちゃんがしたかったよね、ごめん ね」 「…あ…いえ、全然…気が回ってなかったです、私が一番下なんだから 私がやるべきでしたね、私の方こそすみませんでした」 「ううん、下だからとかじゃなくって。瀬能さんに褒められたら、高槻 ちゃん嬉しかっただろうなって」 だから、ちょっと気まずそうな顔をしていたのだろうか。 私は全然思いもしなかったのに。 「生田さん、なんか、本当にすみません…気を使わせてしまって」 私が言うと彼女は笑った。 ******* 会がお開きになった後、私は瀬能さんに呼ばれて一緒に帰る事になった。 「何食べて帰ろうか、リクエストがあれば聞くよ」 「いえ、瀬能さんが食べたいもので良いです」 「んー、食べたいものねぇ」 口元に手を置いてから少し首を傾げた。 「今日のレストランに置いてあったグラタンが結構美味しかったんです よ、瀬能さんが好きじゃないかなって思ったんですけど、食べないって 言われたんで…」 「そうなんだ」 彼は目を細めて笑う。 「全然料理は食べなかったんですか?」 「うん、苦手だからね」 「相当お腹が空いたんじゃないですか?何も食べてないんじゃ」 「空いてるかもしれないけど、最悪食べなくても良いと思う人間だから 苦にはなってないよ」 「そういうものですか?」 「うん」 彼は私を見て、それから微笑んだ。 「ありがとう」 「何が、ですか?」 私が訪ねると彼は又笑った。 「なんだかね、色々俺の事考えたんだなぁって思えたから」 「か、考えるっていうか…」 瀬能さんの言葉に顔が熱くなってくる。 ”考えよう”と思って考えた事ではなくて、自然と彼の事ばかり思って いた。 ふっと気が付くと、頭の中は瀬能さんの事ばかりで。 「そういうの、凄く嬉しいよ」 指先で少しだけ私の頬に触れながら彼が言った。 私が彼の事を考えたりするのを許されたと思えて、嬉しく感じる。 嬉しいというよりも安堵感の方が強かったかもしれない。 瀬能さんを怖いと思った事は無い。 だけど、私は心の中にある感情に対しては怖いと感じていた。 何故そんな風に思ってしまうのかは判らなかったけれど。 「瀬能さん、あの…生田さんから私の事いろいろ聞きだしていたんです ね」 「聞き出すとは人聞きが悪いね、例えば何の事?」 「蝶が好きとか、ロクシタンが好きだとかそういう事です」 彼は笑った。 「たまたま生田さんが喋ってくれただけの事で、聞き出したって程のも のじゃない」 そう言ってから私を見詰めた。 「なんて言ったら、冷たく聞こえるかな。でも沙英ちゃんに関しては何 だって聞きたいという事には変わりはないんだけどね」 少しだけ触れていた指先が、するりと頬の上を滑り、それから掌を私の 頬に置いた。 温かい体温が心の奥にある冷たいものを溶かしてくれる様に思える。 もちろん、それは錯覚に違いなかったのだけれども、ずっとこうしてい たい、こうされていたいと思ってしまう私の気持ちは、真実だと思えた。 「どんなに小さな事だって、君の事なら知りたい」 彼の言葉は私の気持ちにも似ていた。 私もまた、どんなに些細な事でも彼の事なら知りたいと思っていたから。 そんな風に思う様になっていたから。 私の頬に置かれた彼の手の上に自分の手をそっと重ね合わせた。 心が震える。 それは泣きたくなる様な感覚にも思える。 だけど、泣く事も、何か思い出したくない記憶を引き出すきっかけにな る様な気がして、私はそれを怖いと感じてしまう。 もしかしたら、”それ”は大した事ではなくて、 逆に思い出してしまった方が余程すっきりするのかもしれなかったけれ ども、私自身がその事に対して拒絶をしていた。 思い出したくない―――――と。 「沙英ちゃん」 両手で私の顔を包む様にする。 彼は少しだけ屈んで、額同士を付け合せた。 「時々、どうしようもない位の感情に流されそうになる時がある。今が そうなんだけどね」 近距離に瀬能さんの綺麗な瞳がある。 黒瑪瑙の様な瞳が私を映していて、その瞳を通して私をどんな風に見て いるの? そう思ったら、堪らなく胸が痛くなった。 耐え難い痛みとかそういった類の物ではなく、何か形容しがたい物。 胸の鼓動が早くなっていく。 彼は苦笑いをした。 「そんな瞳で見ないで、俺だってそんなに我慢強くはないよ」 心の中にある感情が何かに絡め取られて引き寄せられる。 絡め取られているのは私自身ではないかと思い違いをする程の強い何か に。 身動きが取れなくなっていく様な錯覚。 全てが支配されていく様な感じがして苦しい。 「心が苦しいです…どうして、こんなに苦しくて辛いって思うのか、判 らないのも苦しくて、でも…」 「……でも、何?」 ぴくっと身体が反応した。 彼の声に。 今まで聞いた事の無い様な、少しだけ低いトーン。 震わされたのは鼓膜だけではなかった。 身体の芯が熱くなってくる。 ”身体の芯が熱い”と感じるのは初めてだったので戸惑う。 「止めないでちゃんと言いなさい」 促されて言葉を繋ぐ。 「苦しいけど、でも、そんな風に感じるのは嫌ではないと思えるんです」 「そう」 ちらりと彼を見てから、視線を外した。 「まだ何か言葉が続くなら言いなよ」 「苦しいと思う事が何故なのかは判らないです…でも」 言いかけて唇を結んだ。 「”でも”何?」 言いたくない意思表示に首を振った。 苦しくなる理由は判らないけど、原因は判っていた。 瀬能さんの所為だって、判っていたし、自覚もあった。 だけどそんな事は言えない。 言ってどう思われるかが怖かった。 ―――――何も考えずに言った言葉で、相手から傷つけられた事がある。 タダ、オモイヲツカエタカッタ、ダケナノニ 言わなければ良かった。 何日もそう思い、幾度となく思い出しては苦しんだ。 それがなんだったかは思い出せないけれど、そんな経験が私にはある? 元々臆病者ではあったけれど、多分その事でそれまで以上に臆病になっ てしまった。 「言わずに済むと思っているの?」 瀬能さんは笑った。 いつもの彼と同じ笑顔で。 安堵すると同時に、この笑顔を失ってしまいたくないと強く思ってしま った。 首を振ると彼はちょっと溜息をついた。 「俺の言葉をまだ、信じてないの?嫌いにはならないって言ってる。な んでそんなに怯えた顔をするのかな、怯えさせない様に努力してるつも りなんだけどね」 ふっと瀬能さんは笑った。 「どんな風にしたって君が怯えた様な顔をするんだったら、俺は努力す るのを止めるよ?」 目の前に彼の顔が有り、綺麗に輝く瞳で私を見る。 「努力…って?」 「…本当は全部、判ってるんじゃないの?」 その黒瑪瑙の様な瞳を少しだけ細めて彼は言った。 言葉の意味も、それが持つ真意も測りきれなくて首を振った。 彼はまた小さく息を吐いた。 「まぁ、計算高い人間の方が余程扱いやすい…か。 君がそうではない人間だから、手を焼いているわけなんだし」 手を焼いているという言葉に、胸がずきっとした。 彼が少し困った様な表情を見せたから、私が彼を困らせているのだと感 じた。 「私は、瀬能さんを困らせているんですか、私が居るのは迷惑ですか」 「そんなのあるわけないでしょう?困ってるのは困っているけどそれは 違う意味でだし、君は、ほんっとそういう気にしなくてもいい事を掘り 下げて気にするよね」 「だ、だって…き、嫌われたく…ないんです」 目の奥が痛くなってくる。 熱いものが込み上げて来て、震えた。 「瀬能さんに、嫌われたくないんです」 「なんでそうなるのかな」 「困らせたいわけじゃないんです」 ただ、ただ、私は。 ―――――過去の自分とリンクする。 苦しい記憶。 伝えたい言葉があったから。 沢山の勇気が必要だった。 決してどうかなりたいと望んでいたわけではなく、伝えたいと思ったの は、自分の気持ち以上に感謝の思いだった。 ”あの時”の私はそうだった。 言ってはいけないんだとは少しも考えなかった。 「沙英ちゃん…」 ぎゅっと強い力で抱きしめられた。 抱きしめてくれたのが瀬能さんだと気が付くのに少しの時間を要した。 「泣かないで、泣かせたいわけじゃない」 彼の言葉で、自分の目から涙が零れ落ちている事に気付かされる。 「嫌わないで」 オモイヲ、ヒテイサレルノハ、カクゴノウエダッタ。 だけど ―――――私の存在までを否定しないで――――― 「お願い、嫌いにならないで」 「大丈夫だから」 「嫌わないで、私を、嫌わないで」 「沙英ちゃん、落ち着いて、ね?俺の言う事をちゃんと聞いて」 私は首を振る。 「い…や、聞きたくない、何も聞きたくない」 逃れようとしてもがくけれど、振り切れず、一層の強い力で抱きしめら れた。 「沙英」 「…いや」 震えながら首を振る私の耳元でふっと彼が笑った。 「全く、どれだけマイナス思考なの。俺が君を嫌いになる事は無いって 言ってるのにね」 そう言いながら、私の涙を拭った。 私の中で瀬能さんに対する思いが変化していく度に、 隠し続けていた記憶が、甦って来る。 何かの思いと連動している。 「取り敢えず、一旦家に帰ろうか」 瀬能さんにタクシーに乗せられ、彼の家に戻る事になった。 多分私は、私自身が気付かない場所で判り始めているのだと思った。 自分の気持ちというものに…。