カナシイオモイヲスルタメニ、コイヲシタンジャナイ ****** 土曜日、瀬能さんへプレゼントする為の毛糸選びに大きい手芸店に出掛 けた。 欲しい毛糸はピュアカシミヤのものだったので、小さい所だと売ってい ないと思ったから。 (えーっと、これかな) 手に取ってその毛糸の手触りを確かめる。 柔らかで、滑らかそうな感じだった。 さすがにちょっと高価ではあったけど、こういうものに妥協はしたくな かった。 妥協する事で感謝の気持ちを濁したくはなかった。 喜んでくれるかどうかは判らないけど…。 黒のピュアカシミアの毛糸玉を購入し、早々に帰宅する。 (今日は、瀬能さんも休みかな?昨日のチャットで何も言ってなかった から休みだよね) 画面越しの彼は、やっぱり私が思ってた様に煙草を吸っていた。 鳥鳥市場での事を思い出すと、瀬能さんがどうして「悲しくなってきた 」と発言したのか、余計に判らなくなる。 あれはなんだったのかな。 ふっと溜息をついて考える。 彼が呼ぶ「沙英ちゃん」という呼び方に初めは慣れなかったのだけど、 最近では呼ばれ慣れたのか、違和感みたいなものは感じられなくなって 来ていた。 親しんでくれているのだから喜ぶべきなのだろうと思われた。 そういえば、瀬能さんって下の名前はなんていうんだろう? そんな事をふと思った。 彼はあまり積極的に自分の話をしない。 訊けば答えてはくれたが、「興味あるの?」といった疑わしげな目を必 ずする。 自分で気が付かないうちに、私は彼に何か失礼な事でもしているのだろ うか? 悩んではみたものの”気が付かないうちに”の事なら考えても思い当た る筈もなく、考えるのを諦めて、瀬能さんへのマフラーを黙々と編み続 けた。 気が付くと夕方になっていて、部屋の中が薄暗い。 だいぶ編めたので、一息ついて紅茶でも飲む事にする。 温かい紅茶をマグカップに入れて、少し冷ましてから口にした。 瀬能さんは、今日は何をしているのかな。 映画に行ったりしているのかな…。 ひとりでは観に行かなさそうだから、誰かと一緒に。 誰かって、誰かな。 休日だったら…。 ふっと、今まで考えていなかった事が思い浮かんだ。 (あ、そうか。彼女とか?) あまり、というか全然考えていなかった事だったのだけれども、瀬能さ んに彼女がいない筈はない。 あんなに綺麗に笑う人で、聡い人だったら。 (あー…なんで考えなかったのかな) 自分の考えの足りなさに、溜息が漏れた。 頭を少し掻いて、また溜息。 物とか、ましてや手編みのプレゼントなんて良くないと思い始める。 半分以上編み上がっているマフラーを見て少し恨めしくなった。 ここまで折角頑張ったのにと思うのは自分側の身勝手な気持ちだ。 でも、ここまでを瀬能さんの事を思いながら編んできたので、編み上げ てヤフオクに出品するというのも到底出来ないと思えた。 (毛糸、勿体無いから…編み上げて、自分で使うかぁ) 針で刺したみたいに、胸がちょっと痛くなる。 この感覚はあまり好きではない感覚だった。 ぬるくなった紅茶を飲み干して大きく伸びをする。 自分で使うには相当贅沢すぎた毛糸だったけれど、寒くなってきている ので調度良いかと思う事にした。 (大丈夫、私は何も感じてない) その夜、いつもの時間に瀬能さんとビデオチャットをする。 瀬能さんには今日、何をしていたか訊かれたけど、私は彼がどんな休日 を過ごしたかを訊く事は出来なかった。 日曜の晩も、同様だった…。 ****** (今日は、瀬能さん朝は会社で会議って言っていたから) フロアで逢えるかな? ぼんやり、そんな事を考えた。 月曜の朝、昨日に比べるとひときわ寒く感じる。 昨晩仕上がったばかりの首に巻かれたマフラーを撫でてみた。 思った通りに柔らかく、肌触りも良かった。 仕上げた達成感も満足感もあるのに、ちょっとだけ空虚な感じがするの はなんだろうか。 沢山の人の流れに合わせて歩き、改札をくぐった。 「沙英ちゃん、おはよう」 聞き馴染んだ声のする方を見たら、そこには瀬能さんが立っていた。 「せ、瀬能さん!おはようございます。どうしたんですか?こんなとこ ろで」 「あぁ、沙英ちゃんを待っていたからね」 「…え?私を、ですか」 「会社まで10分もかからないけど、一緒に出勤しようかと思ってね」 「そうなんですか?寒いから待たなくて良かったのに」 私の言葉に瀬能さんは苦笑いした。 「うん、まぁ…滅茶苦茶寒いね。一段と」 首にはグレーのマフラーが巻かれている。 吐く息が白くなるぐらいに、今日は寒かった。 「雪でも降りそうな感じですね」 「そうだね」 「会議が終わったら、今日はまた一日外ですか?」 「クライアントとの商談が一件あるだけだから、夕方には会社に戻るか な」 小さく笑って彼が言う。 それから短い時間、私を見た。 「そのマフラー、一昨日編んでるってチャットで言っていたやつ?」 「え?あ、はい。そうです」 「ふぅん、仕上げるの早いんだな。綺麗に出来てるし」 「そうですか?ありがとうございます」 ちくりとまた針で刺したような痛みがする。 「毛糸のマフラーって肌触りどうなの?」 「…毛糸の、種類にもよりますけど、これはピュアカシミヤの毛糸で編 んだので、ちくちくしたりしないです。肌触りも良いですよ」 「そうなんだ。いつもマフラーはカシミヤで編むんだ?」 「いえ、あの…普段はカシミヤの毛糸は使わないです、これは特別…な のです」 「特別?」 横に並んで歩いている彼は、私をちらりと見た。 「どんな特別なの?自分へのご褒美とか?」 「ご褒美とかじゃないです」 「ふぅん?」 私はマフラーを少し撫でて、出来上がりは満足なのに、どこかやり場の ない思いに溜息をついた。 「手編みのカシミヤマフラーって興味があるな、触ってみてもいいかな」 「あ…、はい、どうぞ」 マフラーの先端を瀬能さんに向けた。 彼はそこに触れる。 「へぇ、本当に手触りがいいんだな。編み目綺麗だし」 「嬉しいです、一生懸命編んだし、綺麗に仕上げるつもりだったので」 仕上がり自体はとても気に入っていた。 ただ。 胸がひどく苦しい。 毛糸を選ぶ段階から、瀬能さんの事を考えてしまっていたから。 これには感謝の気持ちが入ってしまっているから、仕上げたこのマフラ ーに対しても、なんだか着けるのが私でごめんねという気持ちにさせら れた。 「なんだか、元気ないか?マフラー編むのに夜更かししたの?」 瀬能さんがちょっと屈んで私を見た。 「元気なんで大丈夫です」 「んーそうか」 「そうです」 ―――――激しい、後悔。 こんなに苦しくなるんだったら、編まなければ良かった。 思いの外、ダメージが大きいらしく、これには私自身も驚いていた。 なんだって、こんなに誤魔化しきかないくらいに痛いのか。 「理由を…」 「…え?」 「人が理由を言わない時って、隠したい事があったりするから、と言う 場合も多々ある」 瀬能さんは私を見ながら言う。 相変わらず聡明そうな瞳で。 「…そうですか」 「夜更かししたのって俺が訊いたのに、沙英ちゃんは否定も肯定もしな かったよね」 「それは…」 「理由を言わないのは、追求されると困るから、とか避けたいとか思う 場合も多いかな」 「そうですか?」 「と、言うか…」 瀬能さんは私の頭を2回撫でた。 「大丈夫じゃないんだろう?それなのに大丈夫とか言わない」 軽く私の頬を叩いて彼は笑う。 「大丈夫じゃない理由を知りたいとも思うけど、それ以上に嘘を言われ る方が嫌だよ」 肌に触れている瀬能さんの指先。 違う苦しさが胸を襲う。 気遣う様に見詰めてくる瞳が優しく見えて。 優しさを向けられているのが自分だと思うと、何とも言いがたい気持ち にさせられる。 「すみませんでした。嘘つきました」 ぽつりと言った私に瀬能さんは、にっこりと笑った。 「そう」 これでこの話題から開放されるかと思ったのだけど、それはすごくすご く甘かった。 「俺に嘘をつくって言う事は、俺が無関係ではないからだよね?」 「え??」 「俺が関係しないのなら、理由を俺に言える筈でしょう」 「そ、それは…」 「まーた、なんか誤魔化そうとしてる。そんなの俺が判らないとでも思 うの」 「だ、って」 「辛そうな顔しない。原因は?それの原因がもし俺なら取り除く役目も 俺にあると思うよ」 「いえ、私が勝手に、した事なので」 「”した事”?って何?」 「や、それは」 「何かやらかしたのか」 「何も、やらかしてなんていません。ただ私は」 言いかけてきゅっと唇を結んだ。 「ん?そこまで言ったのなら最後まで言いなさい」 頭を撫でながら瀬能さんが言う。 私が首を振ると、撫でていた指先を私の髪の毛に梳きいれ、後頭部に手 回し引き寄せる様にして耳元で囁いた。 「言いなさい、君が何を言っても怒らないから」 聴こえる声が近すぎて、その吐息が触れて、私は身を捩る様にもがいた。 「はっ、話しますから、遠くに行って下さい!!」 私の言葉に瀬能さんは身を起して笑った。 「遠くに行ってとは酷いよねぇ〜」 腕を組んで意地悪そうに微笑んでいる。 「酷いのは、瀬能さんですっ!」 「俺は別に酷くないから」 首を少しだけ傾げる。 よくこのポーズを彼がするのを見る。 「私は、本当はこのマフラーを、瀬能さんにあげたかったんです」 「あぁ、そうなんだ?でもなんで、過去形なの?」 「途中で気が変わったんです」 「あげるのが勿体無くなったから?」 ふっと瀬能さんは笑った。 「違います。手編みとか、良くないって思ったからです」 「良くないの意味が判らないけど」 「…良くないんです」 「ふぅん。じゃあ、良くないと思ったのは判ったよ。だったらなんでそ れが原因で元気無くなるの?」 「…頑張って、編んで…、毛糸を選ぶ段階の時からどんなのが良いかっ て、瀬能さんの事を考えていたから、渡せないのが、ちょっと辛いので す」 言いながらなんだか悲痛な気持ちになって来ているのに、瀬能さんは面 白そうに笑った。 「あぁそう、それだったら、渡せば?俺は欲しいと思うし」 ちら、と顔を上げて彼を見ると、柔らかく微笑んだ。 「何かあったのかと、滅茶苦茶心配した。あまり心配させるな」 ぴたぴたと私の頬を手の甲で叩いた。 「…心配させたかったわけじゃないので…すみません」 「いいよ」 彼は自分の首に巻いていたマフラーを外すと、私に渡し、今度は私の首 に巻かれているマフラーを外してそれを自分の首に巻いた。 「うん、柔らかくて暖かい」 嬉しそうに笑う彼の顔を見て満足した筈なのに、胸が一層苦しくなった。 辛いと思った胸の痛い気持ちとは異なる様に思えたが。 「瀬能さん、ありがとうございます」 「なんのありがとう?」 「嬉しいです。瀬能さんの為に編んだから、瀬能さんにして貰えるのが 凄く嬉しいです」 「嬉しいのは俺の方だと思うけどね」 くすっと彼は笑った。 笑いながら私の手の中にある自分のマフラーを取り、私の首に巻いた。 ふわりと瀬能さんの香りがする。 「寒いから巻いておきなさい。クリーニングに出して戻ってきたばかり だから汚くないし」 「…ありがとう…ございます」 「相当良いね、このマフラー。凄く気に入ったよ」 彼は手で一度マフラーを撫でてからそう言った。 「すみません、ラッピングとか、綺麗にしていなくて」 「全然構わない」 私の自己満足に付き合わせてしまって申し訳ないとも思ったけど、純粋 に嬉しいと思えた。 瀬能さんの優しさに、今は甘えていたかった。