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● 優しさの欠片 --- ACT.5 ●

  
キオクノカタスミニハ、フレタクナイブブンガアッタ

******


「寒いから、鍋でも食べに行こうか」

瀬能さんがそう言ったので、その日の晩は鍋料理を食べに行く事になる。
彼が直帰でない場合は、食事に誘われる事が多かった。
”ひとりの時はご飯を食べない”と彼は言っていたので断れなかった。
断りたい大きな理由はなかったけれども、行けば奢りになるので、金銭
的負担をかけるのは申し訳ないなと思っていた。

本当は、鍋もあまり他人とは食べに行きたくなかったのだけど…。

「前に、今後俺が奢ると言ったらにこにこ笑うと良いと思うよって言っ
たの、もう忘れたのか」
「忘れてはいないですけど、悪いと思う気持ちは消せないですよ」
「なんで悪いと思うの?」
「お金使わせて…」
「君ってやたらお金お金って言うよね」
瀬能さんはそう言うとふふっと笑った。
「…私は一人暮らしですし、稼いで生活することの大変さを判っている
つもりなので、そりゃあ、お金の事は気にしますよ」
「ふぅん、まぁ…そう言うのは判らないでもないけど、でも君を食事に
誘う事で、俺の生活がひっ迫するっていうのは全くないから気にしない
で良いよ」
「はぁ…」
「同じお金を使うんだったら、沙英ちゃんが笑ってくれる方が嬉しいん
だけどね」
彼はそう言って笑った。
目の前の鍋には鯛や鱈、海老が入っていてぐつぐつ言っている。
…凄く、熱そうだ。
「そろそろ良いんじゃないかな」
烏龍茶を飲んでいた彼がそう言った。
「あ、何から食べますか?」
菜箸を持って言うと”適当に取り分けて”と瀬能さんは微笑んだ。
「美味しそうですよね」
「ここの鍋は良い材料使っているから、美味しいと思うよ」
「鯛を食べるの久しぶりです」
取り分けた小鉢を彼に渡し、自分の小鉢には鯛を一切れと、白菜を一切
れ入れた。
「なんでそれしか入れないの?」
瀬能さんは不思議そうな顔をした。
「あ、私は凄い猫舌なので熱いのは食べられないんです」
「そうだったの?その割りに飲み物はいつも温かいのしか飲まないよね?」
彼は私の緑茶を指して言った。
「この前飲みに行った時もお湯割ばかり飲んでいたし」
「温かいのが好きなんです。夏場も、温かいのしか飲みません」
「へぇ」
私は目の前の美味しそうな鯛が、早く冷めてくれないかなと思った。
ふと、彼を見る。
「何?」
「いえ、温かいのしか飲まないって、よく見てるなぁって思ったんです」
彼は微笑む。
「そりゃあ、君の事だしね」
「…はぁ」
「どんなに小さな事だって、知りたいと思うから見るよ」
「…そうなんですか」
鯛に一度目を落としてから、再び顔をあげて彼を見た。
「あの、訊いても良いでしょうか」
「ん?何」
「…瀬能さんって、下の名前なんて言うんですか?」
彼は苦笑いした。
「何、知らないの?」
「す、すみません」
「まぁ…良いけどね」
彼はスーツの内ポケットから名刺入れを取り出し、そこから名刺を一枚
出して私に渡した。
瀬能和瑳と書かれている。
「かず…さ?」
「うん、そう」
「…あの…、この名刺頂いても良いですか?」
「欲しいなら、どうぞ」
私が微笑むと、彼は笑った。
名刺入れなどは持っていないので、私はそれを定期入れの中にそっとし
まった。
「そろそろ食べられそう?」
「あ、はい。頂きます」
「うん」
鯛をほおばると、凄く美味しかった。
「美味しいです」
「そう、良かった」
彼はにこりと笑う。
つられて私も微笑んだ。
瀬能さんは私が料理を冷ませるようにと取り皿を頼んでくれた。
それが妙に嬉しく感じる。
「鍋は…人と食べに行くのは本当は苦手なんです」
「猫舌だから?」
「はい、食べるのが凄く遅くなっちゃうから、一緒に食べる人に悪いと
思うので」
「ふぅん。別に俺は全然構わないけどな」
「ありがとうございます」
「礼は要らないけどね、俺は食事はゆっくり食べる方が良いと思う人間
だから。何か話しながら、のんびりが好き。ただ食べるだけの食事だっ
たら食べない方がいい」
「そうですか?」
「うん、味気ないから嫌なんだよ」
「だから、ひとりの時は食べないんですか?」
「美味しいと感じないからね」
「…それは、そうかもしれないですが…」
「あぁ、別にひとりで食べる人に対して否定的なわけではないんだよ。
俺の家は、いつも家族バラバラな生活で滅多に顔を合わせなくてね、顔
を合わせるのは食事会の時ぐらいでさ。その時は皆どんな生活してるか
とか、最近どんな事に興味があるとか、いろんな話をする発表の場みた
いになっていたんだよね」
食事会、の言葉に少しの違和感があったけれど、瀬能さんがこうして自
分の話をする事は今までなかったので、私は黙ってその話を聞いていた。
「ただ、それぞれが好みとか興味の対象がばらばらでね。初めは会話が
なりたたなくて、食事会もすぐお開きになってたりしてた。それが嫌で、
俺は皆の興味の対象の物、好みそうな事柄について、常に情報収集する
ようになった。長く話をしたかったから、会話の糸口を必死に探してた。
まったく違う好みの話だって、少しでも共通しそうなことがあったら、
結びつかせるように話をもっていくようにした」
そこまで言って彼は私をちらりと見た。
「ま、どうでもいい話だな」
「いえ、あの…瀬能さんの話、もっと聞きたいです、聞かせて下さい」
彼はちょっとだけ笑った。
「結局のところ、俺は家族の皆に”好ましい人物である”と、思っても
らいたかっただけなんだけどね」
「好ましい、ですか」
「末っ子だから構われたい一心だったのかな、兄達とは歳が離れていて、
俺が家族になった時には皆忙しい人だったし。両親含めて」
彼はそう言うと烏龍茶を口含んだ。
「存在を印象付けないと、忘れられるって常に思ってたよ。それぐらい
会わない家族だったから」
「…そうなんですか」
「そっちの取り皿の料理、いい感じに冷めたんじゃないか」
瀬能さんは笑う。
「瀬能さんって、ただ色々考えてる人だったんじゃなくて、それを裏付
けるものがあったんですね」
料理を食べながら彼は目線を私に向ける。
「あんまり感心とかしないで、そういう目的を以って話をしたわけじゃ
ないから」
「いえ、あの…しないでって言われてもしちゃいます。諦めないのが強
いなって」
「強い?それは違うな、弱いから必死になるだけだよ」
「ただの弱いとは違うと思います」

アキラメテ、ジブンノソンザイニメヲムケサセルコトスラ、シナカッタ
クセニ

心の中がざわめいた。
警鐘が鳴り響いている様に思えた。

何か、思い出したくない事が見える様な気がして―――――。

「沙英ちゃん、どうした?」
はっとして彼を見ると心配そうに私を見ていた。
「あ、いえ、なんでもないです」
「なんでもない様には見えないんだけど」
「…誤魔化しているとかではなくて、自分でも判らなくて説明できない
です」
「そう?」
「だから…大丈夫です」
私は笑って彼を見た。
そういえば、今日も瀬能さんは灰皿を使っていない。
「あの、煙草吸って下さいね?」
私が言うと彼は苦笑いをした。
「ありがとう、でも食事のときは吸わないよ」
「あぁ、そうなんですね」
「うん」

でも、瀬能さんは食事が済んでも、灰皿を使う事はなかった。


******


「今日は、送るからね」
鍋料理店を出てから彼はそう言った。
「いえ、大丈夫ですよ、ひとりで帰れますから」
「ダメ。その為に今日は飲まなかったんだからね、駅の近くのパーキン
グに車停めてあるから、行くよ」
そう言って瀬能さんはすたすたと歩き始めた。
私は慌てて彼を追う。
駅近くのパーキングに、瀬能さんのプジョーが本当に停まっていた。
「こんな所で揉めるの嫌だから、さっと乗ってね」
ふふっと笑うと、彼は助手席のドアを開ける。
「…判りました」
私は苦笑いをして彼が言う通りに車に乗り込んだ。


「車に乗るのは好きなんです」
窓の外に流れる景色を見ながら言う。
「免許持っているの?」
「いえ、持っていないですが…」
「…好きって言えるほど、誰かが運転する車に乗っているんだ」
彼を見ると笑うでもなしに正面を向いている。
「乗ってないですよ」
「そう?」
ちょっと彼は肩をすくめた。
「好きと言うか、憧れですね。
滅多に乗るものではないからたまに乗るとドキドキします」
「ふぅん、そう」
「あ、煙草吸って下さいね」
彼を見て言うと、瀬能さんは笑った。
「なんだってそんなに煙草、煙草って言うの」
「だって、遠慮とかされるのは嫌なんです」
「遠慮とは違うから気にしないで良いよ」
「じゃあ、なんで吸わないのですか?」
私の問いかけに、ふっと瀬能さんは笑う。
「なんで〜?には答えないよって言ってあるよね」
「我慢しているなら、吸って下さい」
「我慢はしているけど吸わないよ」
「どうしてですか?」
「答えないって言っている」
彼は可笑しそうに笑った。
「我慢されるのは嫌ですよ」
「どうして?」
「ど、どうしてって…我慢はストレスになるからです。一緒に居るとき
ストレスを感じさせるのは嫌ですから」
「なんで嫌なの」
「ストレス感じる相手と一緒には居たくないって思うのが普通です。そ
んな風に思われていくのは嫌です」
「そう」
瀬能さんは微笑む。
「それは俺も同じだから、ずっと吸わなかったんだよ?沙英ちゃんが煙
草の煙を好まないのは知っていたからね」
「え??」
「煙草を我慢するのはなんて事はないけど、沙英ちゃんに我慢を強いて、
それがどういう風になっていくのか判らないから、吸わない選択を俺は
している」
「そうだったんですか?だったら吸って下さいよ、瀬能さんが煙草を吸
う事ぐらいで、何か変わったりはしませんから」
小さく彼は微笑む。
綺麗に笑うから、思わず息をのんだ。
瀬能さんの横顔は見とれるぐらいに麗しかった。
長い睫毛に縁取られた瞳も、黒瑪瑙(くろめのう)の様に美しい。
何色にも混ざらないその黒は、強い意志の塊にも見えた。
「瀬能さんはズルイです」
「え?何が」
「綺麗すぎるから、いつまでも見ていたいとか思ってしまいます」
「はぁ、見たいんだったら見ててもいいけど」
「見てる自分を見られるのは嫌です」
「何それ?」
彼は笑った。
「見てるって、知られるのは怖いです」
「意味が判らないけど」
「知られて、どう思われるのかって考えるのが怖いです」
「どう思うって、俺が見ても良いって許してるんだから、何とも思いよ
うがないんじゃないのかな」
彼の言葉に私は顔を上げた。
「あ、そうか…そうですね」
「どんな風にこっそりと君が俺を見ていても、俺はそれに絶対気が付く
から、だったら正々堂々と見れば?って思うぐらいかな」
「そんなもんですか?」
「そんなものですよ」
信号待ちで車が緩やかに停止する。
瀬能さんは私を見た。
「どんな視線にだって晒されても構わないし、それが侮蔑の類だって、
君が俺を見てくれるんだったら、構わないかな」
軽く笑う様に言われたその台詞に、心臓を鷲掴みにされた様な感覚に陥
った。
苦しい。
なんで、そんな風に言うの。
彼の大きな掌が私の頬を撫でた。
「怖がらなくていいんだよ」
心臓が、早い鼓動を打っていて、全身が熱くなる。
私の唇の端を彼がそっと撫でた。
「顔が熱いね」
ふふふと瀬能さんは笑う。
「瀬能さんが、そんな事言うからです」
「そんな事ねぇ」
また彼は笑って正面に向き直し、車を走らせる。
普通に笑っているから、私は瀬能さんが何を狙っているのか判らなくな
る。
こんなに、私は苦しいのに。
心の中が痛いのに。

心の痛さが何かに同調する。
過去に受けた痛み?
でも同じ物とは違う。

だけど。

―――――ドウシテシラナイナンテイウノ!!

きぃんと耳鳴りが起きる。

「沙英ちゃん?」
彼が呼ぶ声も、耳鳴りの所為で聴き取りにくい。
だけど呼ばれてるのは認識できた。
「沙英ちゃん?大丈夫か?」
耳がキンキンする。
頭の中で金属同士が打ち付けられている様な感じがしていた。
「耳…痛い、何も、聞こえない…感じがして…」
車が停まる感じがした。
凄く遠い所でハザードランプが点滅する音が聞こえる。
遠いと感じるのはおかしい筈なのに。
「沙英ちゃん…大丈夫?」
猫が身を寄せてくる様な仕種で、瀬能さんの身体が私に近くなる。
体温が感じられた。
少し躊躇いながら彼に身体を寄せたら、すぅっと耳鳴りが無くなった。
瀬能さんの肩口に顔を埋める。
スーツの布越しに熱を感じた。
「…すみません、瀬能さん…治まったんですけど、もう少しだけこのま
まで…居させて下さい」
「あぁ、良いよ」
後頭部に彼の手の感触。
私は、ほぅっと小さく息をはいた。

あの声は、甦りかけた何かの記憶?

辛い、苦しい。
そんな記憶の破片。

忘れていると思い込んでしまっている記憶なら、どうか思い出させない
で。

こんなに少しの破片でも苦しいと感じてしまう物だったのなら。

「心が痛いと感じた瞬間に耳鳴りがしたんです」
「そう」
「原因があると思うんですが…判らないんです。でも、知りたくないん
です」
「ん、じゃあ考えるな」
ぽんぽんと瀬能さんが小さな子供をあやすように背中を叩く。
「すみません、なんか…変な様子見せてしまって」
「構わないよ」
私はゆっくりと身体を起した。
彼から身体を離すのが少し名残惜しいと感じてしまう事にも、頭が混乱
してくる。

甘えるには度を越え過ぎている筈なのに。

「辛かったら、シート倒してもいいよ」
「いえ、大丈夫です」

辛いのは本当だったけど、疲れている彼の横で自分だけ楽は出来ない。
「大丈夫なので」
「そう?じゃあ、車出すけど大丈夫?」
「はい」

一刻も早く家に帰って眠りにつきたい。

そんな気分だった…。




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