じわじわと、思い出したくない記憶が甦ってきそうで怖かった――――。 ****** 「高槻ちゃん、目が真っ赤だけど大丈夫?」 生田さんが声をかけてきた。 昨晩は結局あまり眠れなかった。 家に帰ってすぐベッドに入ったのだけど…。 「寝不足で…」 私がそう言うと、生田さんがこそっと話しかけてくる。 「それって、最近瀬能さんと仲がよさそうなのと関係ある?」 「え?あ、仲良くなんてないですよ」 「でも、よく二人で帰ったりしてるじゃない?」 ふふっと彼女が笑う。 「いえ…まぁ、ご飯は食べに行ったりしていますけど」 「付き合ってるんじゃないんだ??」 生田さんはさらっとそんな事を言う。 私は驚き慌てて首を振った。 「そ、そんな、全然ないです!!つっ付き合うだなんて」 「そうなの?」 「そうですよ、大体瀬能さんには彼女がいますよっ」 私が言うと生田さんはきょとんとした顔をする。 「え?瀬能さん、高槻ちゃんには彼女いるって言ってるの?」 「あー…、いる…とは聞いた事ないですけど、いないわけないじゃない ですか」 「んー?まぁそうかもしれないけど、明確にいるって聞いた事もないわ よ」 「いますって、あれだけの人だったら」 エンターキーを押して軽く息をはいた。 瀬能さんに借りたマフラー、早くクリーニングして返さないと、と思っ た。 「高槻ちゃんは、瀬能さんの事どう思っているのかな?」 生田さんはちょっと微笑んで言う。 「どうって…いい人だなとは思いますが」 「好きとか、そういうのはないの?」 彼女の言葉にまたしても驚いて、生田さんを見た。 「す、好き、ですか?私が、瀬能さんを??」 「うん、そう」 私は一瞬だけ考えて口を開く。 「判らないです、そういうの考えた事ないので」 「そうなの?」 「は、はい」 「そうかぁ、良い感じかなぁって思ったんだけどな」 「そんなの全然です」 『どんな視線にだって晒されても構わないし、それが侮蔑の類だって、 君が俺を見てくれるんだったら、構わないかな』 君が俺を見てくれるんだったら―――――。 彼の言葉を思い出して赤くなった。 違う、違う。 そんなんじゃない。 深い意味なんてない、そうに決まってる。 また胸が苦しくなってきた。 瀬能さんの事を考えると、胸が痛くなる。 笑顔や、仄かに感じた温もりを、思い出すだけでも息が苦しくなる。 彼の少し低めの声や、黒瑪瑙の様な瞳を思い出すだけで…。 (胸、痛い) ぎゅうっと締め付けられる様な痛み。 震えるぐらい痛くて苦しいのに、また思い出してしまう瀬能さんの笑顔 や首を傾げる仕種。 思い出したくない。 ―――――そんな風には思えなかった。 いつだって、まるですぐ隣に居るかの様に彼を思い出していたい。 むしろそんな感じだった。 『忘れたくない事だったら、何度でも思い起せばいい。記憶の形ってそ うじゃないのかな?反芻させる事でその記憶は確かなものになっていく』 確かな記憶の形。 やっぱり不思議なのは、昨日起きた事や瀬能さんと過ごした時間は、す っかり過去の記憶になってしまっている事。 私の頭の中には確かに記憶として残っているけど、本当に過ぎ去った現 実だったのか? と、思ってしまう。 瀬能さんにそんな事を話したら、ちょっとだけ微笑むのだろうな…。 「ふぅん」って言って。 ****** 会社が終わり、駅で生田さんと別れた後はまっすぐ自宅の最寄り駅へ向 った。 駅に付いた後は、駅の近くにあるスーパーで夕飯と、明日のお弁当のお かずになる物を購入する。 スーパーを出ると救急車や消防車が何台も走っていくのが見えた。 走っていく方向が、まさに自分の家の方角だったので胸騒ぎを覚える。 (まさか…ね) 急ぎ足で自宅に向った。 目的地まで近づくと、人が沢山集まってきていた。 野次馬らしき人に訊ねてみる。 「あ、あの、火事ってどこですか?」 50代ぐらいの女の人が答えてくれる。 「コンビニの傍のアパートよ」 どきん。 心臓が跳ねた。 さっきまで青いと思っていた空が黒い煙でおおわれている。 焦げ臭いにおいが立ち込めていた。 家に、帰らなきゃ…。 きっと違うと、信じたかった。 だけど―――――。 自分の住んでいるアパートから赤々とした火や火の粉が燃え上がり、少 し離れた場所でも、その炎の勢いに恐怖を覚える程だった。 ****** 暗闇の中から意識が戻されていく感じがした。 おぼろげだった意識がはっきりしてくる。 「家…が、燃えてしまいました…」 ぽつり、と言うと 「あぁ」 返事が帰ってきた。 …瀬能さんの、声。 気が付くと、彼が私を抱いてくれていた。 私の身体にはブランケットが掛かっていて…。 いつからそうしてくれていたのかは判らない。 家が燃えている間に、無意識の中で彼に電話をした様だった。 瀬能さんはすぐに来てくれた、のだと思う。 彼に電話した事も、彼が到着した時の事も私は覚えていなかったから。 私の身体を擦るように彼が撫でた。 「…君が、無事なら…それでいい」 見上げて、それから私は瀬能さんに胸に顔を埋めた。 「君が家に居る時でなくて良かったよ」 強い力で抱きしめられる。 「でも、でも…全部、燃えて」 震える身体をなだめる様に彼は撫でた。 「命あっての、物でしょう?」 瀬能さんは小さく息を吐いた。 それから、温かいミルクを私に差し出してきた。 受け取ってから見渡すと、どうやら私は瀬能さんの家に連れて来られて いた様だった。 一時の記憶がまるで無かった。 「とにかく、君が無事で良かったよ」 彼は繰り返す様にそう言った。 震えてミルクが上手く飲めない私の頭をそっと撫でる。 「3階の部屋は使っていないから使うといいよ。少し横になるか?」 「は…い」 「ん、おいで」 彼は私を支えるようにして立ち上がった。 3階まで階段で昇り、ベッドのある一室を瀬能さんは貸してくれる様だ った。 「なにか寝巻き持ってくるよ。男物しかないけど」 「はい、本当にすみません」 「いいんだよ」 彼はちょっと笑ってから部屋を出て行った。 一室と言っても私の住んでいたアパートの部屋より遥かに広い。 一軒家の様だったので彼は家族と住んでいるのだと思った。 数分後に戻ってきた瀬能さんに頭を下げる。 「すみません、あの…ご家族の方にも迷惑をお掛けして…」 「いや、俺は一人暮らしだからそういう気兼ねは要らないよ」 「え、あ…そうだったんですか」 「言ってなかったか?これ、大きいとは思うけど取りあえず着なさい。 明日になったら何か適当に見繕って買ってくるから」 男物の寝巻きを渡しながら彼が言った。 「明日…は、実家に帰るとか、するなり…考えます」 「駄目、帰さないよ。3階の部屋は使って良いって言っただろう?」 強めに瀬能さんは言ってくる。 「で、でも…」 「君の生活用品は明日揃えてあげる。不自由させるつもりないから」 「そんなの、申し訳ないです」 私が首を振ると、ぱしっと頭を叩かれた。 「駄目、決めたんだから。君は此処で暮らすの」 そう言われて本来は凄く困る、それが普通の事だったのだろうけど…。 「すみ…ません、迷惑掛けますが本音を言うととても助かります…。う ち、実家が少し遠いし姉夫婦が同居してるので…帰りにくかったので」 「迷惑とか言わないの。俺が良いって言ってるのだから」 「でもあの…」 「早く着替えて、少し横になりなさい。色々言ってもいいけどそれは明 日聞く。それから、お腹すいたら言いなさい。2階のリビングにいるか ら。…まだ食べてないだろう?」 彼は少し気遣わしげな表情で私を見る。 「スーパーの袋をずっと握り締めてた。車の中でも。中身は冷蔵庫に入 れてある」 私は視線を床に落とした。 「瀬能さん、すみません…」 「何が?」 ベッドに腰掛けている私の前に跪く様に彼が座った。 「瀬能さんが貸してくれたマフラーも、お土産にくれた鏡も燃えてしま いました」 「そんなの別に構わない」 「だけど…」 「もういいって」 膝の上に乗せてある私の手を彼は握った。 「鏡なんてこの先いくらでも買ってあげる事は出来る、でもそれは君が 生きていればこそだ」 私が瀬能さんを見ると、彼は悲しげに小さく笑った。 「君の気持ちが全く判らないで言っているんじゃないんだよ、取って置 きたい、大事な物だってあっただろう。だけど、物とは引き換えには出 来ないものがあるから…」 ふっと目線を逸らし、彼は立ち上がる。 「お腹すいたら、遠慮しないで下においで。今日は俺、寝ないから」 私の頭に手を置いてから、彼は部屋を出て行った。 瀬能さんが出て行った後は、静か過ぎて居たたまれなくなる。 着替えて布団に潜っても到底寝付けそうにはなかった。 大事な物も全て焼けてしまった。 毎日見ていた卒業アルバムも、もう無いんだ。 私の思い出の一部だった物。 大きく溜息をついた。 (思い出とか言っている場合じゃない…これからの生活を考えなくちゃ) ”暮らして良い”と彼は言ってくれたけど、鵜呑みにして甘えるわけに はいかない。 出来るだけ早く、新しい生活スペースを確保しなければ…。 そんな風に私は思った。 寝返りをうって目を閉じる。 前日の寝不足も手伝ってか、うとうとはするけれど眠りが深くなろうと すると、激しい炎や煙が思い出されて、はっと目が覚める。 何度かそれを繰り返し、私はベッドから降りた。 お水を貰おうかと階下に降りる。 リビングのソファーには瀬能さんが居た。 彼はすぐに私に気が付いてくれる。 「どうした?お腹すいたか」 微笑んで読んでいた本を閉じる。 「あの…喉が渇いたので、お水を貰いに来ました」 「ミネラルウォーターとかでいいの?温かいお茶がいいなら入れるよ?」 私は少し考えてから口を開く。 「あの、じゃあ…お茶が欲しいです」 そう答えると彼は極上の笑みを浮かべた。 「ん、そこに座って待っていなさい。俺も丁度飲みたい所だったんだよ」 そんな風に言うのは彼の優しさだという事はすぐに判った。 こんな時なのに、くすぐったくて嬉しい。 瀬能さんの優しさが温かくて、悲しくないのに目頭がじんわり熱くなっ た。 日本茶が入れられたマグカップがテーブルに置かれる。 「すぐには飲めないと思うけど」 「あ…はい」 でもこのお茶が冷めるまでは一緒にいられる。 今は、ひどく瀬能さんの傍に居たい気分だった。 彼がクスッと笑う。 「なんかねぇ…可愛いね」 「え?」 「ちんまりしてて、小動物みたいに可愛い」 それが私の事を指して言っているのだと気が付くのに数秒かかった。 「…ちんまりで、すみません」 「あれ?気を悪くした?」 両手で頬杖をついて彼が笑う。 「いえ、ちんまりなんで構わないです」 ふふっと瀬能さんは笑った。 「可愛い、可愛い」 「…もういいです」 「拗ねた?」 面白そうに彼が笑うので少しだけ不機嫌な気持ちになってくる。 「拗ねてないです」 ふふっと彼は又笑った。 「いつまでも見ていて飽きない可愛らしさだよねぇ」 「はぁ…」 「可愛い、可愛い」 「……」 私はまだ適温まで冷めていないお茶に口をつける。 やっぱり、まだ全然冷めてなくて。 「…あっつ…」 「ほら、慌てて飲むから」 「瀬能さんがからかうからです」 「からかっているわけではないけどね。楽しんではいるけれど」 ちらっと彼を見ると楽しそうな表情をして頬杖をついている。 「私は、楽しくないです」 「そう?だったらごめんね?」 ちょっと首を傾げて彼は言う。 一見謝罪をしている様に見えるけど、全く謝罪の念は感じられない。 しれっとしている、そんな仕種でさえとても絵になるのが少し悔しい感 じがした。 「私は瀬能さんみたいに、綺麗じゃないんで」 ぼそっと言うと彼は目を丸くした。 「綺麗ねぇ、俺のどこが」 「顔のつくりが綺麗とか、瞳の色が黒瑪瑙みたいだとか、色んな仕種が いちいち様になるとか、なんだか段々腹ただしくなってきます」 「ふーん」 少しだけ目を細めて笑った。 「黒瑪瑙ねぇ」 言ってから彼がにやにや笑うので、私は恥ずかしくなってくる。 「本当、からかうのやめて下さい」 「からかってないけどね」 「瀬能さんはそう思っていても、私はそう思うんです」 「―――――可愛いって思うのは本心だよ」 ふっと、口調が真剣な感じになる。 口元に浮かべる笑みはそのままなのに、私はどきっとしてしまった。 「からかう気持ちじゃない」 頬杖をついていた体勢を変えて彼はソファーの背に身を預ける姿勢をと る。 「いつだって君のこと、可愛いって思ってる。口に出すか出さないかの 差はあるけど」 「…そういう風に言われるのもなんだか居心地が悪くなります」 「そう?何故?」 「そんな風に言われ慣れてないので」 「ふーん」 彼はまたにやにや笑っている。 「ま、またからかったんですね」 「からかってないって」 言う割には楽しそうにしている。 「ひどいです…だいぶ…かなり、へこんでいるのに」 「お茶、ぬるくなっているんじゃない?」 「…飲みますよ」 むくれた表情で飲む。 そんな私を彼は少し笑った。 「俺もだいぶ気を張った。俺の言動をからかっていると言うのなら、む しろ少しからかうぐらいは許してくれてもいいんじゃないの?」 顔を上げて瀬能さんを見ると苦笑いを浮かべた。 「俺に連絡をくれたという点はすごく良い評価が出来る事だけどね」 「それは…申し訳ないと思っているんです、気が付いたら瀬能さんに電 話していたみたいで、その…あまりその時のこと覚えていないのですが」 「良いんじゃない?そういう中で俺が浮かんだのは、君の中にだいぶ存 在が植えつけられて来ているって事だと思えるし」 「…なんで瀬能さんはそんなに、私に構うんですか」 「……」 「なんで、そんなに親切にしてくれたり、優しくしてくれたりするんで すか?」 「なんでには答えないよって言ってあるよね」 「…意地悪です」 ぽつっと呟くと、彼が笑った。 「俺から言わせて貰うと、まだ答えが見つかってないの?って気分なん だけどね」 「そんなこと言われても…」 「いつ、答えを見つけてくれるの?それとも答えを見つける気が無いの かな」 マグカップのお茶を一口飲んで彼は言った。 「そんなの言われたって判らない事ばかりだし、聞いても答えてくれな いから」 「聞かれた事に答えないのは、それが”答え”に直結している、もしく はそれに近い返答をしなくてはいけないからだよ」 彼はちょっと笑った。 「そんなの、言えるわけないだろ」 「…言えない事なんですか?」 「臆病者なのでね」 ふふっと又いつもの様に瀬能さんは笑う。 「判らないです、瀬能さんが臆病者っていうのも含めて」 「まぁ、いいさ」 お茶を飲んで笑みを浮かべた。 「時間遅いし、そろそろ寝たら?明日会社には行かなくてもいいと思う けど、身体は休めないとね」 「…会社は、行きたいですけど…」 化粧水だとか乳液だとか化粧道具がまるでない。 そういえば、今日化粧落としていない。 ようやくその事に気が付いた。 「明日、色々買い揃える様に手配してあげるから、会社は休みなさい」 「あ、の…瀬能さん」 「なに?」 「コンビニ行きたいです。化粧落としを買いたいんです」 「あぁ、そうか気付かなかったな、ごめん。買って来てあげるよ」 彼は身体を起して立ち上がった。 「男の一人暮らしの家は沙英ちゃんにはだいぶ不便だな」 「不便っていうか…その」 「悪いね、不自由させないって言ったのに」 「いえ、それは」 少しだけ考えてから私は言った。 「でも、あるんだったら買わなくても今日の所は、瀬能さんの彼女が使 っている洗顔用品をお借りできればと思います」 コートを羽織っていた彼が難しそうな表情をした。 「す、すみません…使わせたりとかしたくないです、よね…ごめんなさ い」 「なんて言うか、君、俺に彼女がいるとか思ってるわけ?」 はぁと瀬能さんは大きく息を吐いた。 「思ってます、けど」 「俺ってそんなに気安い男だと思われているのか、心外だな」 ちょっと怒っている様に感じられたので私は慌てて謝った。 「いえ、違います。そんなんじゃないです、ごめんなさい」 「じゃあ聞くけど、今まで俺の言葉のひとつひとつどんな風に受け止め てきてた?俺の言葉の意味とか考えた?そんなのだから何も答えが出て こないんじゃないのか」 私の肩を掴んで見下ろしてくる彼はやはり怒っている様子だった。 「ご、ごめんなさい」 「謝って欲しいんじゃない」 「…ごめんなさい」 はぁ、と彼は溜息をついて笑顔を作った。 「怖がらせたいっていうのでもないから」 そっと私の頭を撫でてくる。 「ただ、もう少し俺の事を考えて。君なりに考えてくれる様にはなった のかもしれないけど、でもそんなのじゃ全然足りないんだよ、もっとも っと…考えてよ」 「瀬能…さん?」 「でないと、俺の気持ちが焼き切れてしまいそうだよ」 ふっと彼は笑って私から離れた。 「コンビニ、行って来るよ」 掴まれた肩が痛くて、パジャマ越しに感じた熱が熱くて、私はその場に へたり込んだ。 (なん…で?) 掴まれていた肩を自分の手で擦った。 強い眩暈に、気を失いそうだった。