ホントウハ、ワタシヲミテホシカッタ ズットソウ、オモッテイタノニ ****** 「沙英ちゃん、会社に行って来るからね」 彼のその声に、朝が来ていたことを気付かされた。 眠りの中にあった意識を引き戻して慌てて身体を起こす。 「あ、瀬能さん…おはようございます」 彼はベッドに腰掛け、私の頭を撫でた。 「おはよう。勝手に入ってごめんね、一応ノックはしたのだけど返事な かったから。朝ごはんなんだけど、昨日買ってきたコンビニのお弁当で 我慢してね。昼ぐらいには手伝いの人が来てご飯の用意とかする様に手 配したから。洋服とかもその人に頼んである、必要な…例えば下着とか は全部彼女に言うといい」 「あ、は、はい」 「ん。本当は俺が全部してあげられればいいんだけど、プレゼンとか色 々立て込んでいてね、今日は会社を休めないんだよ」 「いえ、いいんです。仕事の方が大事なので」 私が言うと彼はちょっと難しそうな表情をした。 「まぁ社会人としては仕事は大事かもしれないけど、昨日の今日で君の 傍に居てやれないのは辛いと思っているよ」 「…は、はい…そう、ですか」 「じゃあ、行って来るよ」 「あ、あのっ瀬能さん」 立ち上がろうとする彼の腕を思わず掴む。 「何?」 「…昨日は…すみませんでした」 「なんの事?」 「私、あの…思い違いとかしていて」 「なんの?」 「瀬能さんに恋人がいるとか、その…」 「あぁ、その事か」 彼は少し首を傾けて笑った。 「いいけど、別に。俺は彼女が居ても君を誘う位気安い男っていう風に 評価されてただけなんだし」 「そ、そんなんじゃないです」 「がっかりはしたけど」 瀬能さんは笑って言ったけど、その言葉は私に突き刺さった。 違う、とか色んな言葉を探したのにどれも上手に彼に伝える事は出来な いと思えた。 「せ、瀬能さん、あの、私の事…」 苦しくて胸が潰れそう。 言葉を吐くのも正直辛かった。 だけど…。 少しだけ顔を上げて彼を見た。 「私の事、嫌いにならないで下さい」 「……」 すぐに言葉が返って来なくて、私は視線を下げた。 「嫌われたく、ないんです」 嫌われたくない。 それは、今私の中にある強い気持ちだった。 瀬能さんには嫌われたくない。 家に住まわせてくれるからとか、そういう物ではなく、心の奥深い場所 にある、何かしらの私の感情がそう訴えかけてきていた。 頭に大きな掌の感触。 見上げると彼は笑った。 「嫌いになれるわけないだろう?」 「瀬能さん…」 「ばかだね」 頬に彼の手。 温かいその手に私はそっと触れた。 「大丈夫だよ、そんな心配はしなくて良い。君がどんなにひどい事をし たとしても、俺は君を嫌いになったりはしない」 「…瀬能さん?」 見詰めると優しく瞳を向けてくれた。 「些細な事で嫌いになってしまえるぐらいの容易い感情は持ち合わせて ないのでね」 どきん。 胸の痛みが、またやってきた。 痛いのに、身体が痺れるぐらいの感覚なのに、手放せない。 その感覚に心が支配されている感じがした。 「多少傷つけられるのは覚悟の上だよ」 私の頬に当てていない方の手で頭を撫でた。 「さてと、会社に行かないと遅刻する」 離れていく彼の温もりが堪らなく名残惜しかった。 「夜には戻る。そんな顔をするな」 瀬能さんは鮮やかに笑って見せた。 ****** 昼前に、瀬能さんが言っていた女性が2人家を訪ねてきた。 30代前半ぐらいと思われる優しそうな感じの人達だった。 「和瑳様のお世話をしています松川です。いつもは1人なのですが、今 日は荷物が多かったので2人で来ました」 そう言って彼女達は沢山のショップの紙袋を車から家に運び込んだ。 「お嬢様のお好みに合うか判りませんが、和瑳様が可愛い系の物でと仰 られたので」 紙袋には沢山の洋服が入っている。 …お嬢様…の台詞にちょっと恥ずかしくなった。 「それから靴を何足か購入して参りました。23センチと伺っています」 「あ、は、はい。23で大丈夫です…」 「下着のサイズを伺っても宜しいですか? 和瑳様からそれはお嬢様から聞く様にと指示されていますので」 「Eの65です」 「ではいくつか持参しましたので、試着して頂いて合うものを置いてい きますね」 「は、はぁ…」 「スカート等も大きかったり小さかったりする物は持ち帰りますので、 試着して頂いても宜しいですか?」 「あ、は、はい」 可愛い花柄のワンピースも沢山ある。 「可愛い、ですね」 手にとって見て少しウットリとしてしまう。 「お好みに合いそうで良かったです」 松川さんは微笑んだ。 もう1人の女性は台所で食事の支度をしている様子だった。 良い匂いがしてくる。 試着が全て終わる頃、昼食の用意がテーブルの上にされていた。 「お肌に刺激の少ないタイプの化粧品も用意してきました。 ファンデーションもお嬢様の肌のお色に合う物を置いていきますね」 「いろいろすみません、ありがとうございます」 「和瑳様のご指示なので」 彼女はにっこりと微笑んだ。 「それでは、洗濯物の回収も済みましたので、私達はこれで失礼致しま す」 「もう帰られるんですか?」 「ご指示頂いた用件は済みましたので、それでは」 2人はあっという間に家を出て行ってしまった。 リビングにぽつんと私だけが取り残される。 洋服の類も試着して着る事が出来た物は、3階にあるウォークインクロ ーゼットの中に仕舞われていた。 靴も靴箱に入っている様で玄関は片付いている。 (広い家だよなぁ…台所やトイレは1階にも2階にもあるし) トイレに至っては3階にもある。 3階も私が寝た部屋以外にも2つ部屋がある。 1人で住むには広すぎると私は感じていた。 それに、手伝いの人、だとか、持って来てくれた服や靴の量からみる瀬 能さんのお金の使い方とかに、相当驚いてしまった。 私が派遣されている会社は確かに世間に名の通った一流企業ではあるも のの、そこの社員だからというだけで他人にポンと使える金額の域では ないと思えた。 今日持って来てくれた服の量だけで、私が元々持っていた量を超えてい る。 靴もそんなに必要ないというぐらい置いていった。 知れば知るほど…、瀬能さんは謎が多い人物だと思えた。 言動もそうだし、生活環境などもそうだった。 『多少傷つけられるのは覚悟の上だよ』 今朝、彼が言った言葉は、私の中でずっと引っ掛かっている。 傷つけられる? 瀬能さんを傷つけるのは私という意味? リビングの白いソファーに腰を下ろしその上で膝を抱えた。 傷つけるつもりなんて全くない。 彼がどんな事で傷つくかという事でさえ、想像も出来ない。 私が深く考える事なく言った言葉にも彼は傷ついたりしているのだろう か。 例えば、瀬能さんに彼女が居ると私が思っていた事に対してだって、そ うなのだろうか? (確かに、彼女が居るのに私を誘う人っていうのは、よく考えたら”気 安い人”って事になるよね) 気安いというか軽い人という風に思うのは普通だと思えた。 でも、瀬能さんに対してそう思っていたわけではない。 居ない筈はないという私の思い込みがあった。 ただそれだけで…。 ある一点の事に気が付き、気持ちが曇った。 ―――――じゃあ、それならば、 彼女が居る筈だと思っていた瀬能さんの誘いに簡単に乗っていた”私” に対して、彼はどう思った? 心の中が暗くなっていく感じがした。 ****** 「で、飯も喰わずに一日しょんぼりしてたわけか」 昼ご飯を食べなかった事に対しての追求を受け、私が渋々答えるとそう 言って瀬能さんは笑った。 「ふぅん、そう」 私の気持ちをよそに、彼は楽しそうに笑っている。 「俺は別に何とも思っていないから安心すると良いよ」 「…でも”気安い人だと思っている瀬能さんにほいほいついていく私” は、もっと気安い人だと思われても仕方がないと思います」 「そんなの思ってないし感じて無いから」 「彼女の居る人の家に上がりこむのもどうかと思いますし」 「実際は居ないんだし、良いんじゃない?」 「最低ですよね、私」 「いや、そういう部分はあまり掘り下げて考えなくて良いから」 彼は笑ってそう言った。 「…でも」 私が続け様とすると、瀬能さんは腕を組んで首を傾けた。 「聞くけどさ、君のそれって他人から最低だと思われるのが嫌で言って いるの?それとも俺の評価が気になって言っているの?」 「瀬能さんの評価の方です」 「だったら、評価は下がって無いから気にする必要ないよ」 「でも、普通に考えたら嫌になっても仕方ないと思うんです」 「嫌になる事はないので、大丈夫」 そう言って彼は私の頭を撫でた。 「そういう所はそんなに考えなくてもいいよ」 「…でも、言葉足らずで色々思われるのは不本意です。瀬能さんの事だ って、素敵な人だと思うから、彼女が居て当たり前だと思っただけで、 ”彼女が居るのに誘って気安い”とかそんな風には考えた事もなかった んです」 「ふぅん?」 「…彼女が居ると思ったのは、マフラーを編んでる最中だったんです。 その時は、そんな事も気が付かないでって自分に呆れた位だったんです。 だから、彼女の居る人に手編みのマフラーとかあげられないって思った んですけど、毛糸を選ぶ時も、編んでる最中もずっと瀬能さんの事を考 えていたから、仕上がったマフラーをプレゼント出来ないのが辛いとか …思ったりして」 「そう?」 「…すみません、何言っているか判らないですよね」 「大丈夫だよ、まぁ、何を言おうとしているのかは判るから」 なでなでと頭を撫でてくる。 私は、ほっと小さく息を吐いた。 「頭を撫でられるの…なんだか、安心します」 「そう」 彼は微笑んだ。 「俺はね、スキンシップは言葉以上に重要だって思っているから、不快 に思われてないなら良かったよ」 「不快じゃないです」 彼は又微笑んだ。 瀬能さんの笑顔にだって、とても安心させられていた。 この人が今傍に居てくれる事が、どれだけの救いになっているか計り知 れない。 「松川さんが買ってきた服は気に入ったか?」 彼の言葉にはっとして顔を上げる。 「あ、す、すみません。お礼もしなくて、あの…ありがとうございまし た、掛かったお金は少しずつでもお返しするので」 「そんなの要らないけど。俺が勝手に手配した事なんだし」 そう言って瀬能さんは笑った。 「服は…どれも、本当に可愛くて、とても気に入っています」 「そう、だったら良いんだけど」 「でも私にはなんだか勿体無い感じです」 「勿体ない…ねぇ」 瀬能さんはちょっと首を傾げて見せた。 「どんなの買って来たの?見せて貰っても良いか」 「勿論です」 3階にあるウォークインクローゼットの中に入り、 掛けられているワンピース等を彼は見た。 「あぁ、良い感じじゃないのか?勿体無いって事も全然ないよ」 瀬能さんは笑う。 「とても可愛い服ばかりなので…なんて言うか…」 「どれか着て見せてよ、これなんか良いかな」 彼が手に取ったのは白地に小花の模様のキャミソールワンピースだった。 中に白のハイネックニットを着て、見せると瀬能さんは満足そうに笑う。 「うん、可愛いね」 「…ありがとうございます」 「まぁ、そんなの着ていなくても可愛いけどね」 「は、はぁ…ありがとうございます」 「沙英ちゃんって、華奢なのかなって思わせる様な身体のつくりなのに、 肉付きは悪くない感じでおいしそうだよね」 「おいしそう、ですか?」 意味が判らず首を傾げると彼は笑う。 「いい加減お腹空いているだろう?何か食べに行くか」 「あ、でも…お昼のご飯がまるまる残っているので」 私が言うと彼は少し考える様な表情をした。 「沙英ちゃんはそれを食べたいの?」 「勿体ないので食べます」 「んー、じゃあ、俺は何かオーダーして届けてもらうか」 2階へ向いながら言うので、私は慌てて追いかけた。 「そうそう、3階のフロアは、全部自由にして良いからね」 「え?ぜ、全部ですか?」 「うん、俺は使ってないし」 「あのベッドのあるお部屋だけで十分です」 「んー、まぁ、それならそれで良いけど」 瀬能さんは2階にある自分の部屋に入っていく。 私は入口で立ち止まった。ちょっと覗くとパソコンがあって、いつもビ デオチャットで話している時に映っていた部屋だと思った。 「入ってきても良いよ」 パソコンの電源を入れながら彼が言う。 許しが出たので足を踏み入れた。 3階の部屋とは違う匂い。 若干煙草の香りがする。 この部屋は書斎として使っているのか、ベッドがない。 「ベッドは違うお部屋にあるんですか?」 「ああ、ベッドルームはそこの扉から入った所にあるよ。廊下からも入 れるけどね」 瀬能さんが顔を向けた方向に扉があった。 「見ても良いけど、寝るだけの部屋だから何もないよ」 ふふっと笑いながら彼は言った。 「なんて言うか…本当に広いお家なんですね」 「無駄にね。将来家族が増えるだろうと思っての事なんだろうけど」 「瀬能さんが選んだお家じゃないんですか?」 「違うよ、成人のお祝いで貰った家だから」 「…え?お、お祝い、ですか?」 「そう」 パソコンに向いながら彼は返事をしてくる。 「家がお祝いって、なんか、凄いですね」 「まぁ、そうだね」 ちょっとパソコンの画面を覗き見ると、和食のお弁当サイトらしく、瀬 能さんはデリバリーをパソコンで頼むんだなと思った。 「沙英ちゃんってさ」 「は、はい」 「成人式って済んでるの?」 「いえ、来年です」 「あぁ、そうなんだ。じゃあもうすぐだよね、振袖着るの?」 「…えぇと、振袖は着ないです。スーツで出ようかなって思っていたの で」 「なんで着ないのか明確な理由はあるのか」 「なんでって言うか…振袖は買うのもレンタルするのも高いですし…」 「理由はお金?」 「…そんな感じです、ね」 パソコン画面を見ていた瀬能さんは椅子を回転させて私の方を見た。 「じゃ、買ってあげるから、成人式には振袖着ると良いよ」 「え?」 「あまり時間ないから、次の休みは振袖を買いに行かないとね」 にこっと笑ってから又パソコンに向き直す。 「そんな、いいです振袖なんて、そうでなくても服とか色々買って頂い ているのに」 「振袖より袴の方が良いならそれでも構わないけど」 「そういう問題じゃなくって…」 「沙英ちゃんだったら袴の方が可愛いかもね」 「あの、可愛いとかの問題じゃなくてですね…」 「だって、沙英ちゃんの着物姿見たいし」 注文が終わったのか、彼は私の方を向いた。 「駄目ですよ、そんなにお金使わないで下さい」 「俺が良いって言っているんだから良いんだよ」 「そんなにして貰う理由がありません」 「理由があれば良いの?」 「理由があっても駄目です!」 「何それ」 ふふっと笑って彼は腕を組んだ。 「そんなにいっぱいして頂いても、私にはお返しできる対価がありませ ん」 「対価とか求めてないし」 「無償の何かなんて、信じてないので」 私がそう言うと、彼は黒瑪瑙の様な瞳を真っ直ぐに向けてきた。 「確かに無償でと思ってないのは事実。だけど君に何かをして貰いたい と思ってないのも事実だよ」 「…でも…」 「今は、君が居てくれればそれで良いと思ってる」 優しい光が、瞳の中で瞬いている様に見えた。 そんな風に言ってくれるのは優しさなのだと思えた。 「ん、やっぱり紫かな」 「え?」 「着物の色だよ」 彼はそう言ってにっこりと笑った。