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● 優しさの欠片 --- ACT.8 ●

  
ヤサシイハズノオモイデハ、カナシミシカノコサナカッタ



******

火事の後も、日常は変わらなかった。
毎日会社へ行って…。

帰る場所が瀬能さんの家になったという事以外は、大きくは変わらない。

ううん、”同じだ”と自分に言い聞かせているだけだったのかも知れな
かった。
あまりにも変わりすぎてしまって、その変化についていけていないのか
も知れなかった。

変わっていく。
急激に。

変わる?そんなの、気付きたくない。

心の中にある、モヤモヤとした物の正体にも、気付きたくない。

気付いてしまったら―――――。


******


「うん、やっぱり、紫だね」
瀬能さんに連れて行かれた呉服屋さんで、散々振袖を試着させられた後、
彼はそう言った。
紫地の正絹の着物。
紫の中に藤色が縦に流れる様な感じになっていて、その流れの上にカサ
ブランカが描かれている。
「沙英ちゃんは色白だし、こういう感じの物が似合うね」
「…そうでしょうか」
「あぁ、凄く可愛い」
そう言って瀬能さんはじっと私を見詰めた。
視線に晒されて、恥ずかしくなり私は俯く。
「…あまり、見ないで下さい」
「どうして?」
「どうしてもです」
彼はふっと笑った。
「だったら、誰になら見られても良いのかな?君は」
面白そうに言うので、私は赤くなった顔を少しだけ上げて瀬能さんを見
た。
「誰になら、とか言う問題じゃないです。着替えても良いですか?」
「もう脱ぐの?残念」
彼はそう言って笑うと、傍にいた店員さんに”じゃ、これにするから”
と軽く言った。

展示されている着物には値札があったが、
瀬能さんがあれこれ言って出させた着物の値段は全く判らない。
いくらなのか彼は判っているのだろうか。

そもそも、瀬能さんに買って貰う理由は全くないので困ってしまう。

「そういう、何か言いたげな顔はやめなさい」
ふふっと彼は笑った。
「…凄く、嬉しいのは嬉しいんですけど、あんまり私にお金を使わないで下さい」
「どうして?」
「勿体無いからです」
「別に勿体無くないし」
「…」
ちらっと彼を見ると、瀬能さんは笑った。
「良いんじゃない?俺が使いたくて使ってるお金なんだし」
「しがない派遣社員の身としては、瀬能さんのお金の使い方にはビクビ
クさせられます」
そう言う私に彼は笑った。
「まぁ、社員だからってわけじゃないけど、これぐらいはどうという事
もないから、気にする必要は全く無いよ」
「気にしますよ!洋服だって沢山買って貰っているのに」
「良いから、脱いでおいで」
くすっと彼が笑う。
ふと、周りを見ると店員さん達が苦笑いをしているのが目に入った。
私は赤くなって俯く。
「…すみませんでした。脱いできます」
そもそも、この場所に来た時点で私の負けなのだから、
騒ぐだけ彼に恥をかかせるだけなのだという事に気が付いた。

おとなしく試着室に下がり着物を脱がせて貰った。



******

「気晴らしに、少しドライブでもするか?」
車に乗ってから彼はそう言った。
「いえ、いいです。折角の休日なんですから瀬能さんの時間を有意義に
使って下さい」
「沙英ちゃんと居れば十分有意義なんだけどね」
「…さらっとそういう事言わないで下さい」
「どうして?」
「…どうしてもです」
瀬能さんはふふっと笑った。
「沙英ちゃんは、俺と一緒に居たくはないの?一緒に過ごしたいとは思
わないの?」
笑いながら、口調も全く変わらない様子でのその言葉に、私はどきっと
した。
体温が急激に上がる様な感じがして、眩暈がした。
私を覗き込む様にして彼が見詰めてくる。
「どうなの?」
「ど、どう、って…」
少しだけ彼を見ると、瀬能さんはその黒瑪瑙の様な瞳を細めて笑った。
「俺ってそんなに魅力に欠ける男かな」
「み、魅力…的ではあるとは思いますけど」
ちょっとだけ身体を下げて言うと、瀬能さんは首を傾げた。
「思うけど、何?」
「距離、近すぎです」
私がそう言うと彼はふっと笑った。
「近い場所に居たいとも思ってくれないんだ」

だって、体温とか感じてしまいそうになる位、近くて。
それを意識してしまうと、息苦しくて。
だんだん、どうして良いか判らなくなってくる。

瀬能さんの香りがするだけで、胸が苦しいのに。

「沙英ちゃん、こっち見て。ちゃんと俺を見てよ」
それを促す様に彼は私の頬に指先を滑らせた。
ぞく、とする。
不快な感覚ではないけど、今まで知らない様なもの。
心の中が麻痺する様に痺れていく。

「俺はいつだって、君と一緒に居たいって思っているのにな」
笑いながら彼がそう言う。
「…そう言って頂けるのは嬉しいですけど…」
「”けど”何?」
ちらっと瀬能さんを見上げると優しい瞳と視線がぶつかった。
長い睫毛に縁取られた綺麗な瞳。
近くで見れば見るほど、ただ綺麗なだけではない事に気が付いてしまい
そうで、私は目を逸らした。
「どうして俺をちゃんと見ないの」
ふふっと彼が笑う。
「見てます、ちゃんと、瀬能さんが男前なのも理解してます」
「へーえ、俺が男前ねぇ」
意地悪っぽい口調で瀬能さんが言う。
「何を根拠に男前って言ってるんだか」
くすっと笑った。
「…根拠は、無いかも知れませんけど」
「無いとか言うな」
柔らかく笑う彼に吸い寄せられる様に私は瞳を上げた。
「瀬能さんは、素敵な人だって思ってます」
そう言う私に、彼はちょっとだけ困った様な表情を見せた。
「だけど、そんな風に言ってみた所で君の中ではただの通行人と同じ扱
いだろ」
「違います」
「違わない、すれ違ってしまっても、君は何とも思ってはくれないだろ
う?」
「違います」
「どう違うって言うのさ」
彼は優しい瞳を私に向けた。
「…判らないですけど…」

判らない。
誤魔化しではなく、本音だった。

ううん、本音であると思っている私自身が何かを誤魔化そうとしている
のかも知れなかった。
胸の中がもやもやする。

気付きたくない、その正体を知りたくないと強く思う私が居る。

「ま、良いけど」

彼はそう言うと体勢を変えてエンジンをかけた。
瀬能さんの物言いが少しだけ突き放した様に聞こえて、どきりとする。

じわじわと後悔にも似た感情が沸きあがって来る。

怒った?
呆れられた?

瀬能さんを見るといつもと変わらない横顔には見えた。
だけど、心の中はどうだか判らない。

スカートの布をぎゅっと握り締めた。

「ご、めんなさい」
「え?」
「ごめんなさい…」
「なんで謝るの」
彼はそう言って笑った。
心の中がずきずきとする。
沢山の針で刺されている様な感覚。

心が、痛い。

「嫌いに、ならないで、下さい」

苦しい感情。

多分、私は判ってる。
気付いてる。
だけど、その隠した物にまだ触れたくない。

違う、触れてしまったら―――――。




オワリダカラ。




「沙英ちゃん」

大きな手が私の頭を撫でる。
「ね、こっち見て」
俯いている私に瀬能さんが言う。
恐る恐る見上げると彼は微笑んだ。
「大丈夫って言っている。君を嫌いになったりはしないから」
優しい仕種で私の頭を何度も撫でてくれる。
「瀬能さん…」
「よしよし」
彼は優しく笑う。
「君が何を思ったのかは、俺は沙英ちゃんじゃないから判らないけど、
俺は別に怒ったりとかしてないからね?」
「はい…」
「俺ってそんなに怒りっぽく見えているのかな」
私は慌てて首を振った。
「違います、ただ、そうだったら嫌だと思う気持ちが強いんだと…思い
ます」
私の言葉に彼は笑った。
「そんなに気の短い人間じゃないから、大丈夫だよ」
言ってから、少しだけわざと溜息をついて見せた。
「沙英ちゃんってそういう部分には敏感なのに、他の部分はひどく鈍感
なんだよねぇ」
「…え?」
「些細な事で俺が怒っているとかを気にするより、普段俺がどんな気持
ちで沙英ちゃんに接しているのかとか、そっちの方を考えてみてよ」
「…」
「ね?」
極上とも思われる笑みを浮かべて、瀬能さんは車を走らせた。


心の中が痛い。

瀬能さんがどう考えているか、なんて私に判るわけがない。
だけど、胸の奥が焦がされる様に痛いと感じる。

考えたくない。
考えようとすればするほど痛みが増してくるから。

私の中にある小さな拒絶が形を変えて大きくなっていく様で…。


******


その後まっすぐ瀬能さんの家に帰宅した。

2階に上がった所で瀬能さんが声を掛けて来る。
「温かい紅茶でも飲む?」
そんな彼の誘いに躊躇う視線を向けると、瀬能さんは苦笑いをした。
「嫌ならいいよ」
「嫌とか…思ってないです」
「そう?」
彼は2階のカウンターキッチンに入り、お湯を沸かす準備をし始める。
「…あの、お手伝いします」
「んー、すぐ済むし座って待ってて」
「いえ、それでは申し訳ないです」
瀬能さんはふっと笑った。
「じゃ、そこの引き出しから紅茶を出して」
「はい」
引き出しを開けると色んな紅茶が入っている。
「あの…どれを出せば良いですか?」
「沙英ちゃんが飲みたいなーと思うもので良いよ」
「…じゃあ、アップルティーが良いです」
FAUCHONの金色の缶を取り出してそれを瀬能さんに渡す。
彼はお湯が沸いた所で、ティーポットにお湯を入れてポットを温める。
紅茶を入れる優雅な彼の動作を私は隣で眺めた。
紅茶がポットからマグカップに注がれていく。
ふんわりと林檎の良い香りがした。
「良い香りですね」
「そう?」
彼は微笑みながらカウンターにマグカップを二つ置いた。
「お砂糖は?」
瀬能さんが聞いてくるので、私は首を振った。
「このままで良いです」
カウンターからテーブルにマグカップを運んで、ソファーに腰掛けた。
後から来た瀬能さんも同じ様にソファーに腰掛けて紅茶を飲む。
私は冷まさないと飲めないので時間が経つのを待つ事にした。
「あぁ、そうか猫舌だもんな」
そんな事を言いながら、彼は手の甲で私の頬を撫でる。
触れられた部分がすぐさま熱をもった様に熱くなった。
「可愛いねぇ」
呟く様な、囁きともとれる様に彼は言う。
「ずっと、眺めていたくなる」
そう言う彼を困った様に見ると、瀬能さんは少しだけ目を細めた。
「もうちょっと気は長い方だって思っていたんだけど、そうでもないら
しい」
「え?」
「紅茶が冷めるまでの間は、逃げられないでしょう?」
ふふっといつもの様に笑ってから、瀬能さんは私の腕を掴んで自分に引
き寄せた。
彼の身体にぶつかって、それから抱きすくめられる。
「…せ、瀬能…さ…」
「君は、俺を欲しいとは思わないの?手に入れたいとか思わないのか」
彼の言葉や問い掛けはいつも突然で、頭の回転の悪い私には受け答えが
出来ない。
「そんなに俺は君にとって魅力のない男か?」
車の中で交わした会話と似た様な言葉が繰り返される。
繰り返されている様で、だけど先刻とは全く違う雰囲気。
見上げると、真っ直ぐに私を見詰める黒瑪瑙の様な漆黒の瞳と視線がぶ
つかった。

ただ、綺麗なだけの瞳ではないから―――――。

気付き始めていた。
だから気付かない様にしていたかった。

彼の瞳の色はただ黒いわけではなく、甘い光と色で輝いているものなん
だと、知ってしまえば虜になる事が判っているから知らない振りをして
いたかった。

「離して下さい…」
「嫌だ、と言ったら?」
「…どうして、こんな事、するんですか」
「”どうして”には答えないって言ってあるよね」
「どうして…私を、追い詰めるんですか」

こんな風に、苦しくさせて、気付かせて、心を揺さぶって、そうする意
味が何処にあるの。

瀬能さんは腕を解き、私の両頬に手を添えた。
見上げると、いつもの様に微笑む。

「追い詰めているのは俺じゃない、君の方だよ」
少しだけ笑って、私を見詰めた。
「君が、俺を追い詰めているんだよ」
「…私が?」
「そう」
「そんなの、してません」
「しているよ」
「してないです、私は瀬能さんみたいに揺さぶりかけたりしてません」
「十分揺さぶってるよ。気付いてないだけ」
彼は苦笑いをした。
「だから、時々どうしようも無くなる位、そんな君を許せなくなる」
「―――――私は、何も!」
「どうして、気が付かないの?俺をちゃんと見てって言ってるのに君は
全然見ようとしない」
「違う、私はいつだって瀬能さんの事、見てるし、考えてます」
首を振って、彼のシャツを握った。
「瀬能さんの事ばかり考えてる、だから苦しくもなるんじゃないですか!
どうでも良く無いから心が揺さぶられるんじゃないですか、そう言う瀬
能さんだって全然判ってくれてない」
彼を見上げると、瀬能さんはにっこりと微笑んだ。
「そうなんだ、ごめんね?気が付いてあげられなくて」
「……」
私は真っ赤になって彼から下がった。
「酷いです、そうやって弄んでからかうの」
「弄んでなんかいないし、からかってもいないよ」
「私の気持ち、知ってて言ってるんだから、からかっているのと同じで
す」
「沙英ちゃんの気持ちって、何?」
彼の爪の形が良い長くて綺麗な指先が、私の髪を一束掬い絡め取る。
「…判らない、ですけど」
長い髪の先端に瀬能さんは唇を滑らせた。
まるで…口付けでもするかの様に。
「沙英ちゃんに判らないものが、俺に判るわけないでしょう」
「…それは、そうかもしれないですけど…」
「でも、嬉しい」
彼は綺麗に微笑んだ。
その笑顔にどきりとする。

震えて、手を伸ばしたくなる衝動に駆られる。

瀬能さんが私にして来る様に、彼の頬や、さらりとした髪に触れたい。
彼に触れたい。

そう思う感情を私は必死に堪えるしかなかった―――――。



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